2006年07月27日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、星合七夕祭と星辰信仰

 天神祭の神事は七月七日の星合(ほしあい)七夕祭から始まりる。七夕というと夜空の牽牛(鷲座のアルタイル)と織女(琴座のヴェガ)でる。大阪天満宮は今から千五十年程前(九四九年)にこの地(北区天神橋)にご鎮座した。鎮座の由来によりますと「星合(ほしあい)の池(※注1)(※注2)(※注3)に松樹(しょうじゅ)あり、松樹に霊光を見る」とあるが、これは平安の頃の星辰(せいしん)信仰のようでる。

 昔の星辰信仰(星に神秘的な霊力を託して尊崇する信仰)というのは、空に輝く星に対する信仰ではなくて、水に映る星に対する信仰であったと考えられている。そういうことから、古い文献にも大阪天満宮の星合(ほしあい)池で昔から星合七夕祭が行われていたことが記されていた。

 七夕祭が行われる七月七日に、全講社の講元が本殿に参拝して神事が行われ、七月二十四日に宵宮、二十五日に夏大祭のクライマックスを迎える本宮の天神祭が始まる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天暦二年(九四九)天満宮が御鎮座になった時、この池水に霊光が映ったとの伝承がある。また、天正二年(一五七四年)の『石山軍記』に「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」と記録されている。星合の池は、少なくとも千年以上の歴史を持つ古池である。

 なお、付近に七夕池、明星池、夫婦池等が明治年間まで現存していたそうだ。昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲き乱れ、付近には歌舞伎を常打とした天満八千代座、浪花節の国光席、吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街であり、極めてにぎやかな所であった。

(※注2)かつて天満には「明星池」「七夕池」「星合池」という星にちなむ三つの池があり、天満三池という。現在の星合池(亀の池)は、古い資料によると「はす池」「長池」「亀池」などと呼ばれていた。

 昔の「星合池」は大阪天満宮の北門を出て国道一号線に出た左側付近である。「七夕池」堀河小学校の片隅に跡地がある。「明神池」も今はガレージになっている。このかつての天満三池に映る星が信仰の対象になっていたようだ。疫病への対処を星に祈る星辰信仰である。

 そういう由来のある池なので、池が消えていっても残った池を星合池と呼ぶようになったのであろう。この星辰信仰と、もともと天満の地に祀られていた大将軍社、菅原道真公の怨霊を鎮める信仰の三つが結びついて大阪天満宮の天神信仰になったようだ。星合池は、ロマンチックというよりも昔の人々の切なる願いをかけた池であり、名前だったのである。

(※注3)星合の池:大阪天満宮の境内の北側にある小さな池のことだ。池には「星合橋」という小さな橋がかかっていたり、「星合茶屋」という名の茶店がある。江戸時代の資料を見ると、星合の池の少し北には「明星池」という池もあったが、こちらは明治時代に無くなっている。

 江戸時代の文献『摂津名所図会大成』によると、その昔天満宮に神様が鎮座した最初の夜に、大きな松の樹が生え、その梢に明星が降臨し、星の光が池の水に光り輝いたということから「明星の池」と名づけられたとされている。現在も残っている星合の池の方の由来は伝わっていないようだが、池の前にある由来書には先の明星池の伝説が、星合池のそれとして紹介されている。しかし、江戸時代には既に二つの池が混同されていたようなので、そこから来た誤解と思われる。


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2006年07月27日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、久世駒形稚児の綾戸国中神社は高句麗系か?

 山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見している。

 天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになった。

 高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

 いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞鳴尊)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

 綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀っている。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神・大直日神・神直日神 で、国中宮がスサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)だ。

 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされている。

 その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされている。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉します。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)


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2006年07月26日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(四)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(四)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、千余年の歴史ある浪速っ子の祭り

 天神祭が行われる大川は江戸時代には「出船千艘・入船千艘」 といわれ各藩の蔵屋敷がずらっと建ち並んでいたところである。また天満橋と天神橋の間には青物市場、堂島には米市場、雑喉場(ざこば)には魚市場があってたいそう賑わっていた。水を守り自然を大切にしながら、そこに神様をお迎えするというのが天神祭の基本であったのだ(※注1)。

 千余年の歴史ある大阪天満宮(※注2)の天神祭は、厳粛な神事として古式の伝統を由緒正しく守りながらも、その時代時代の社会情勢にダイナミックに反応して今日に受け継がれてきた(天神祭は浪速っ子に支えられて続けられてきた)。


 しかし、歴史ある天神祭も幕末の政変(※注3)や二度の世界大戦で中断があったが、昭和二十四年に船渡御が復活。また、戦後二回ほど中止になったことがある。一回目は昭和三十三~三十四年のスターリン暴落で大阪の経済が落ち込んだ時だ。二回目は昭和四十九年の石油ショックの時である。

 また、地盤沈下の影響で大川を遡航するという現在の形になったのは昭和二十八年からのことである。天神祭には幾多の変遷があり、その存続が危ぶまれた時期もあった。しかしその度に困難を打開し、伝統を守り、盛り上げていったのは浪速っ子の土性骨と心意気であった。天神祭は今も、そうした人々の熱いエネルギーに支えられ発展している。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「鉾流し」の古式・鉾流神事は、水運等の事情で江戸時代初めには雑喉場(ざこば)の地に行宮が設定されるようになり、その本来の意味が失われたため中止になる。その復活は約三百年後の昭和五年(一九三〇年)のことだ。

 行宮の方は、雑喉場から戎島に、その後の明治には松島に移された。いずれにしても、江戸時代以来、本来のスタイルは失われている。なお、現在は鉾が「神童」によって流されるだけだが、この神事の直後、旧行宮の松島に神使が向かうともされている。

(※注2)大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に遡る。菅原道真公は、延喜元年(九〇一年一月二十五日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰四年(九〇一年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになる。

 菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向ったが、二年後にわずか五十九歳でその生涯をとじる。(延喜三年/九〇三年二月二十五日)その約五十年後、天暦三年(九四九年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったという。

 この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座された。大将軍社は、その後摂社として祀られるようになったが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」という祭りを行い、神事の中で「祖(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっている。

(※注3)現在のご本殿は、弘化二年(一八四五年)に再建された物だ。この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保九年(一七二四年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保八年(一八三七年)の大火では、全焼してしまう。その約八年後に、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、現在のご本殿が再建された。


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2006年07月26日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十六)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と八坂造

 八坂の地の八坂郷(※注1)は、山城国愛宕郡を構成する十三郷のひとつで、東山の麓にあり、坂が多いことから八坂と名付けられたそうだ。東山の西麓には、かなり古くから有力な集団がいたようである。

 このあたりは、四世紀後半から五世紀代にかけての首長墓も多く存在する。また、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられる。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている(※注2)。伊利之(※注3)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。

(※注1) この八坂の地は高句麗系氏族ゆかりの場所でもあった。京都のある山城国は、秦一族によって開拓されたが、そのあと高句麗系渡来人も山城国に入り、秦氏には及ばないが、今もその足跡を多く残している。

 『日本書紀』の欽明天皇二十六年(五六五)条に、「高麗人頭霧 耶陛等、筑紫ニ投化テ山背国ニ置リ。今ノ畝原、奈羅、山村ノ高麗人ノ先祖ナリ。」とある。これらの場所は、奈良に接した京都府南部の相良郡のあたりに推定され、かって大狛、下狛の二郷があり、今も地名に残っている。

 ここは渡来系の狛造氏のいたところだ。今はない高麗寺や狛寺も、狛造氏によって建てられたものであろう。また、高麗国使のための施設である相良館があったことも、『日本書紀』に記録されている。

(※注2) 八坂神社のおこりは、斉明天皇二年(六五六)、高句麗の副使の伊利之使主が素戔嗚尊(須佐之男命)を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのにはじまるという。六世紀以前、山城国に入ってきた高句麗系渡来人が相良郡に定住していて、そういう背景のうえに八坂神社が祀られた。やがて平安京に遷都して、高麗氏族の主流も八坂郷に移ったのであろう。

(※注3) 八坂神社の祭祀は、古くには八坂造の子孫が務めていたようだ。伝わる系図によれば、伊利之の子・保武知は山背国愛宕郡八坂の里に居住して八坂造を賜り、八坂保武知と称した。以後、子孫は八坂の里に住したという。

 そして、真綱に至って、紀長谷雄の曾孫忠方の娘を妻として、二人の間に生まれた貞行は剃髪して行円を名乗り、永保元年(一〇八一)祇園社執行となる。以後、かれの子孫が代々祇園社執行を務めたとある。しかし、伝わる系図は中世の頃で途切れている。おそらく、中世になる比叡山の末寺として、執行職が派遣されていたものと考えられる。


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2006年07月25日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(三)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(三)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の流れ(2):本宮祭

(4)、翌二十五日の十四時、本宮の本殿で夏大祭が斎行され、菅原道真公の御神霊を御鳳輦(ごほうれん)に遷し、天満宮から船着場の天神橋までの約四キロメートルを、催太鼓を先頭に約三千人の渡御列が陸渡御(※注2)する。やがて夕焼けに川面が染まる頃、船渡御が始まる。そして渡御列は次々に船に乗り込む。

(5)、同日の十八時、御神霊を乗せた御鳳輦(ごほうれん)などの奉安船を中心に、各講社の供奉船が取り囲んで天神橋から大川を遡って行く。一方、川上の飛翔橋からは奉安船を迎えるための奉拝船が下って行く。双方合わせて百隻あまりだ(※注3)。

 大川の中流に差し掛ると、御鳳輦船(ごほうれん)では厳粛に水上祭が始まる。一方、川の中ほどに固定された舞台船では、厳かな神楽や多彩な伝統芸能が上演され、天神祭囃子が天に届けとばかりに鳴り響きく。前日から堂島川・大川・道頓堀川などを鉦や太鼓を打ち鳴らして漕ぎ回っていたドンドコ(どんどこ)船の若衆の威勢のいい掛け声が祭りムードをかきたてる。

(6)、同日の二十時、大川の両岸に並ぶ八十基の衛士(えじ)篝の火が水面を照らし、二千発あまりの仕掛け花火や打ち上げ花火が夜空を華やかに彩り、照明で浮かび上がる大阪城をバックに、百隻あまりの渡御船が進み、祭りは最高潮に達する。

 三時間あまりの船渡御が済み、奉安船・供奉船が船着場に到着、宮入りが始まる。シンガリを務めた玉神輿が、待ち構えていた催太鼓と次々に「大阪じめ」で手打ちするのは二十二時頃となる。そして本殿では還御祭(かんぎょうさい)が斎行され、熱く燃えた二日間の幕を閉じる(※注4)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注2)神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりである。陸渡御列の中心は、 神霊を奉安する御鳳輦(ごほうれん=御守護神様が御乗りになられた御車)だが、この前後を催太鼓や神輿(みこし)、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進む。

 かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦んだが、安永九年(一七八〇年)には八十四輌もの地車が宮入りした記録がある。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕している。

(※注3)江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先(へさき)に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾り立て、御旅所へ御迎えの船列を整えた。昭和十二年(一九三七年)の船渡御列は、二百艘に達したというが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限している。

 昭和二十八年(一九五三年)、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っている。

(※注4)このように、神は短い旅をするのだ。宵宮(御旅所)から本宮(天満宮)への旅である。神が旅することをお渡り・渡御という。神を行宮でお迎えし、祭場へとお連れすることこそが本来の「渡御」である。

 普通の祭りでは、地上に降りた神は馬に乗って移動するが、それが天神祭では船なので、船渡御となるのである(現在はこのお迎えの船渡御は失われ、船渡御と言えばもっぱら二度目の「還御」にのみ用いられている)。

 神が来て祭りが始まり、神が去ると祭りが終わる。これが祭り本来の始まりと終わりなのである。


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2006年07月25日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(2)

 「祇園社」自身は、貞観十八年(八七六年)に南都の僧円如(一説には、常住寺の僧)が播磨国「広峯」(※注2)に祀られていた天竺の祇園精舎の守護神であった「牛頭天王(ごずてんのう)」を八坂郷の樹下(現在地)に移した「祇園堂」が始まりとされている(※注3)。牛頭天王が素戔嗚尊(すさのおのみこと)になって現れたともいわれている。

 平安時代初期の元慶年間(八七七-八八四)、摂政・藤原基経(もとつね)がこの地に精舎・「観慶寺感神院」を建て、境内に本殿・「祇園天神堂」を設けた(承平四年・九三四年、「感神院社壇」を建立したとも伝えている)。

 しかし、この神社が京の都人と深い関係をもち、規模が大きくなるのは何といっても「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)(のちの祇園祭)」が始まってからだ。「祇園御霊会」の成立は貞観十一年(八六九)とも天禄元年(九七○)ともいわれている。

(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。

 このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。

 明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。だから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。

(※注2) また、正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようである。それが広峯社(現姫路市内)であったようだ。

 さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。

(※注3) 今日の八坂神社に直接に繋がる社祠ができたのは、平安時代に入ってからのようだ。その根拠は、鎌倉末期頃も成立とみられる『社家条々記録』に、「当社草創の根元は、貞観十八年、南都の円如上人、始めてこれを建立す。これ最初の本願主なり。」とあり、また同じ頃の『二十二社註式』(吉田家伝来の記録類には、「牛頭天王は、初め播磨の明石浦に垂跡して広峯に移り、その後北白川の東光寺に移り、その後、人皇五十七代陽成院の元慶年中、感神院に移る」とあり、さらに平安末期か鎌倉初期の『伊呂波字類抄』には「祇園・・・貞観十八年、八坂郷の樹下に移し奉る」と記されている。


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2006年07月25日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(二)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(二)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の流れ(1):宵宮祭

(1)、天神祭のクライマックスが船渡御である。本宮の夜、篝火(かがりび)が水面に映え、花火が夜空を彩る、水の都の火と水の祭典が天神祭だ。

 大阪の夏祭りといえば天神祭、七月二十四日の宵宮・二十五日本宮の二日間にわたって行なわれ、東京の神田祭・京都の祇園祭と共に日本の三大祭の一つとされている。祭りは「鉾流神事」で幕が上がる。

(2)二十四日の朝、七時半頃より本殿にて宵宮祭を斎行。八時半すぎ、白木の神鉾を手にした神童や供奉人、約二百人の行列が天満宮の表門を出発し、旧若松町浜の斎場へと向かう。

(3)、同日の九時(夏越祓いの神事の後)、鉾流橋畔で神鉾を持った神童が、神職と共に斎船(いわいぶね)で堂島川へ漕ぎ出し、龍笛の調べの流れる中、船上から神童の手によって神鉾(※注1)(※注2)(※注3)が流され、天神祭の無事と安全が祈願される。

 十四時、六人の願人が催し太鼓に上がり重く太い音を打ち出しす。本殿には、各講の人々が次々にお祓いを受けに入って来くる。その度に催太鼓、地車と手打ちが繰り返される。

 お祓いが一段落した十六時過ぎ、太鼓は地面に降ろされ、太鼓の下に丸太を敷いて、シーソーのように揺らしながら叩く。これは「唐臼(からうす)」というやり方です。この後、太鼓は氏地巡航に出発する。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 鉾流神事:大阪天満宮鎮座の翌々年の天暦五年(九五一年)に鉾流神事が始まったと伝えられている。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事である。

 鉾流神事は、 鉾に託して「穢(けが)れ」を祓(はら)う(京都・祇園祭の鉾と同じ)とともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っている。

 この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭」がはじめられたのだ。ところが、寛永二十一年(一六四四年)の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまう。しかし、昭和五年(一九三〇年)に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されている。

(※注2) 鉾流神事は鉾流しで神が降りる場所を特定し、そしてそこへお迎えに行く神事である。それが「宵宮」であり、神迎えの儀式なのだ(これが祭りの始まりである)。

 本来一日は夜から始まり、しかも夜は「神の時間」であった。そうしたことから、神をお迎えするのは夜ということになる。夕闇の訪れとともに、祭りは始まるのだ。これが「宵」宮の本来の意味である。

 神は宵に本宮ではなく、鉾が流れ着いた所に降りる(神はいつも同じ所には降りるとはかぎらない。だから毎年祭りの都度、鉾を流し、その時々の神意をお伺いしたのだ)。

(※注3) 鉾流神事は天神祭以前の神事に由来するともされ、「穢れの祓え流し」の儀式だったと考えられている。もっとも、祓え流しには人形(ひとがた)が形代(かたしろ。ケガレを移す身代り)として使われていた。

 その人形や形代は、下流へ、海へと流されていったんのである。そしてその海は常世へと至った(大祓え祝詞)。常世はまた、神のいる所でもある。古式では、鉾流しは旧六月一日に、六月二十五日に船渡御が行われた。


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2006年07月24日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(一)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(一)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪の夏祭りといえば天神祭

 大阪の夏祭りといえば天神祭、七月二十四日の宵宮・二十五日本宮の二日間行なわれ、東京の神田祭・京都の祇園祭と共に日本の三大祭の一つとされている。大阪天満宮の天神祭は、一千余年の歴史を受け継ぐ、厳粛な神事と劇的な祭事が織り成す、日本最大の「火と水の祭典」だ。

 天神祭には宵宮祭(前日祭で、今は七月二十四日)と本宮祭(同二十五日)とあるが、これら二日を合わせて一つの祭りで、宵宮祭のメイン・イベントは「鉾(ほこ)流し神事」(※注1)であり、本宮祭のメイン・イベントは「船渡御」(ふなとぎょ)(※注2)である。

 本宮祭の船渡御(ふなとぎょ)では、例年大阪市北区の大川を約百隻の船が巡行する。午後六時頃、天神橋と上流の飛翔橋の二手から、約一万人が乗船して船が出ていき、船がすれ違うたび、にぎやかに手じめの「大阪じめ」が交わされ、祭りを盛り上げるそうだ。
 フィナーレには、千六百発の奉納花火が打ち上げられ、「火と水の祭典」を飾る。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 鉾流神事:当宮鎮座の翌々年の天暦五年(九五一年)に鉾流神事が始まったと伝えられている。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事だ。

 鉾流神事は、 鉾に託して「穢(けが)れ」を祓(はら)うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っている。この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭り」がはじめられたのだ。

 ところが、寛永二十一年(一六四四年)の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまった。しかし、昭和五年(一九三〇年)に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されている。

(※注2) 船渡御:江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先(へさき)に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾り立て、御旅所へ御迎えの船列を整えた。

 昭和十二年(一九三七年)の船渡御列は、二百艘に達したというが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限している。昭和二十八年(一九五三年)、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っている。


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2006年07月24日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社と祇園祭

 四条通を鴨川を越えてまっすぐ東へ、東山通に突き当たった正面に見える赤い楼門が八坂神社の西門で、この場所を京都の人々は「祇園石段下」と呼ぶ。

 八坂神社は、江戸時代まで「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれてたが、明治の「神仏分離令」によって仏教的な色合いが排除され、土地の旧称に従って「八坂神社」(※注1)と改称された。しかし、京都の人々は以前の通り、普通は「祇園さん」と呼んで親しんでいる。

 八坂神社の夏祭りといえば「祇園祭」だが、こちらも明治維新の神仏分離令により、「祗園御霊会」(※注2)は仏教色を薄めて「祇園祭」と称されることになった。また、明治十年(一八七七年)、旧暦六月の七日と十四日であった祭日が、新暦七月の十七日(前祭)と二十四日(後祭)に固定された。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(1)

 八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之男命の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されてる。

 このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」『日本書紀』神代紀の一書には「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。八坂神社は、七世紀斉明天皇の頃に開かれ、社殿は天智天皇の頃に造られたとされているが、多少疑問が残る。

(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。

 このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。

 明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。ですから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。

(※注2) 「祗園御霊会」は、遡れば、すでに「祇園社(天神堂・感神院)」創立以前の貞観十一年から八坂の地で行われており、それを機縁として「祇園社(天神堂・感神院)」が移されたとも考えられる。しかし、京内に「御旅所」を設けて神幸祭・還幸祭を行うようになったのは、約一世紀後の天延二年からだ。

 しかも、その翌年、円融天皇が御願報賽のため、奉幣の勅使を遣わした。これにより、「祗園御霊会」は「官祭」になったと考えられる。

 「祗園御霊会」は神仙苑における「御霊会」が政争に敗れて誅された「怨霊=御霊」に対して行われたが、八坂における「祗園御霊会」は「怨霊=御霊」とは関係なく、むしろ古来の「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」などのような、恐ろしい疫病を左右する疫神を鎮め慰めるものであったようだ。


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2006年07月23日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十三)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十三)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王(ごずてんのう)

 祇園社(祇園御霊会)の祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)(※注1)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)(※注2)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難である。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのである。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王はなぜ、牛の頭?

 インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのかもしれない。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁があるようだ(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残である。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納された)。

 古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした。また、「牛」と菅原道真公(丑年生まれ)の関係も天神信仰に少なからずあるのかもしれない(「菅原道真の謎、怨霊伝説から天神信仰へ」を参照)。

(※注1) 牛頭天王(天竺の牛の頭に似た「牛頭山にいたと伝えられ、そこにあった栴檀が熱病に効くところから、疫病などを防除すると信じられた)は別名「武塔天王」(武装して手に塔を捧げ持つ毘沙門天と同体異名とされる)とされるが、牛頭天王=武塔天王は、スサノオ命(須佐之男命・素盞嗚尊)であると見なす所伝が古くからある。

(※注2) 八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之雄尊の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されている。

 このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。


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2006年07月22日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。

 同体化は、八坂神社創建(※注1)の時点に遡りる(もしかすると、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのである。

 八坂の地では、古くから八坂氏(※注1)が農耕守護の「天神」(雷神)を祀っていた(古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした)。

 しかし、平安京の成立により人口の急増をみて疫病流行などの恐れが多くなり、そこで、それを防ぎ除くために、貞観十一年頃、牛頭天王(素戔鳴尊神)が播磨の広峯社(現姫路市内)(※注2)からいったん北白川(東天王社)へ勧請し、それから間もなく(貞観十八年)、南都の僧(一説によると、常住寺十禅師)円如が八坂の現在地に堂宇を建て、そこへ牛頭天王(素戔嗚尊神)を移し祀ったとされている。

 八坂神社は社名も幾度も変わり、その実体を捉えるのは困難だ。雨乞いなどの天神信仰、疫病祓い、怨霊鎮めの御霊会、修験道や陰陽道などあらゆる信仰が混淆していくうちに、名に負う祇園精舎の守護神・牛頭天王(※注3)が主祭神になっていったものと思われる。

(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。

 このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。

(※注2) 正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようだ。それが広峯社(現姫路市内)であったようである。

 さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。

(※注3) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。


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2006年07月20日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十一)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十一)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と馬頭(駒形)

 旧上久世村の氏神である綾戸国中神社(※注1)の御神体の駒形(馬頭)は、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされている。祇園祭には稚児が駒形(※注2)の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉する。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするため、牛や馬を犠牲として捧げたそうだ。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁がある(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残だ。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうである)。古くは、「祇園社」では、牛を祀って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした。

(※注1) 上久世という八坂からは遠く離れた地から、祇園祭の重要な稚児が出るのはなぜであろうか。またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はどのようなものであったのであろうか

 史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」ともよばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことが窺える。

 また、近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであったようである。

 また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたがわかる。

(※注2) 駒形と言うのは、稚児が首から掛けている馬の首の形をした木製の物である。この駒形を首に掛けて騎乗した時から綾戸国中神社の祭神の化身とみなされた。

 八坂神社の神と同格の神の化身であるから、なんびとたりとも許されない騎乗のまま境内に入り、本殿にもそのまま乗りつける事が出来る。(この参代の仕方は長刀鉾の「お稚児さん」にも許されていない)平安時代末の「年中行事絵巻」にも駒形稚児が描かれているように、初期からその存在が確認されている。


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2006年07月19日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、頗利采女(はりさいにょ)=少将井殿と聖水信仰

 綾戸国中神社が平安時代から祇園御霊会と深く関わり、御輿渡御の際、「久世駒形稚児」として木製の馬頭(旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体の駒形)を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。それは祇園社の主祭神である牛頭天王(ごずてんのう)の后とされている「頗利采女(はりさいにょ)」、後に「少将井殿」と呼ばれるようになった神をめぐる信仰と深く関わってるそうである。

 御輿渡御の御旅所が昔は二箇所、そのうちの一つが少将の井(少将井殿)であった。「少将井殿」とあるように、「井」すなわち「水」をめぐる信仰とも深い関係があるとされている。

 その御旅所の井戸の上に御輿渡御の御輿(神輿)がドンと置かれていたという言い伝えからもわかるように、夏祭りとしての祇園会における「聖水信仰」「水神信仰」に繋がるとされている。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、牛頭天王(ごずてんのう)とスサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)

 祇園社(祇園御霊会)の祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難である。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更される。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であっただ。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、牛頭天王(ごずてんのう)はなぜ、牛の頭?

 インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのかもしれない。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁がある(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残である。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうだ)。

 古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのである。また、「牛」と菅原道真公(丑年生まれ)の関係も天神信仰に少なからずあるのかもしれない(「菅原道真の謎、怨霊伝説から天神信仰へ」を参照)。


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2006年07月18日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

 綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀る。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神(おほあやつひのかみ)・大直日神(おほなほびのかみ)・神直日神(かみなほびのかみ)で、国中宮がスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)である。

 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされてる。

 その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされた。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉する。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社は高句麗系か?

 山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見する。

 天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになったそうだ。

 高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

 いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞嗚尊)(※注1)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主(いりしおみ)の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖だ。このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔鳴尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。


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2006年07月17日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の和御魂と荒御魂の合体

 八坂神社に普段鎮座している、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)は和御魂(にぎみたま)で、神のやさしい穏やかな面を持つ神とされている。久世駒形稚児(※注1)が送り出す上久世の綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)(※注2)の祭神も、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)であるが、その荒御魂(あらみたま)と言って同じ神でも荒々しい烈しい面を持つ神といわれている。

 一年に一度その両方の神様がお会いになり、一つにならないと(合体しないと)祇園祭は成立しないといわれている。祭りの要となる重要な役割として、長い間上久世の地で受け継がれてきた。稚児には綾戸国中神社の氏子のなかの、八歳から十一歳の男子を対象として選ばれる。

(※注1) 駒形と言うのは、稚児が首から掛けている馬の首の形をした木製の物である。この駒形を首に掛けて騎乗した時から綾戸国中神社の祭神の化身とみなされている。

 八坂神社の神と同格の神の化身ですから、なんびとたりとも許されない騎乗のまま境内に入り、本殿にもそのまま乗りつける事が出来る(この参代の仕方は長刀鉾の「お稚児さん」にも許されていない)。平安時代末の「年中行事絵巻」にも駒形稚児が描かれているように、初期からその存在が確認されている。

(※注2) 上久世という八坂からは遠く離れた地から、祇園祭の重要な稚児が出るのはなぜであろうか。またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はどのようなものであったのであろうか。
 史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」とも呼ばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことが窺える。

 また、近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであったようだ。

 また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたがわかる。


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2006年07月16日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「駒形稚児」または「久世駒形稚児」

 「お稚児さん」(※注1)(※注2)といえば山鉾巡行の「くじ取らず」である長刀鉾が、しめ縄切りの模様が全国ニュースに流れたりして有名であるが、祇園祭の本来の意味から言えば、神事に欠かせない「お稚児さん」は「久世駒形稚児」である。

 あまり知られて無い「久世駒形稚児」であるが、こちらの「お稚児さん」は長刀鉾の「お稚児さん」より、さらに重要な意味を持つ。旧上久世村(現京都市南区上久世町)から祇園祭の神幸祭と還幸祭に各一名ずつ、二名が選ばれ、白馬に乗って神輿が三基あるうちの一基「中御座」の先導を努める(中御座の神輿の先導をする「お稚児さん」が「久世駒形稚児」である)。

 長刀鉾の「お稚児さん」は十万石の大名と同じ「正五位少将」の位を授かる。俗に「お位もらい」と呼び神の使いとしての資格を得る儀式だ。これは山鉾巡行の際、高い場所から身分の高い人を見下ろすための免罪符という考え方もある。

 ところが「社参の儀(お位もらい)」で八坂神社に参拝する長刀鉾の「お稚児さん」は馬から降りなければならないが、「久世駒形稚児」はまさに神の化身であるから、社参の際も決して馬から降りる事はない。ちなみに神社の境内は古来よりどんな身分の高い人であろうと騎乗が許されていなかった(「皇族下馬」)。

 また、古文書によると「ご神幸の七月十七日に久世の稚児の到着なくば、ご神輿は八坂神社から一歩も動かすことがならぬ。もしこの駒故なくしてお滞りあるときは必ず疫病流行し人々多いに悩む」と記されてる。

(※注1) 今日の祇園祭では、稚児が出るのは長刀鉾と綾傘鉾、および「久世駒方稚児」だけだ。特に長刀鉾の稚児は有名であり、七月十三日の八坂神社への「社参の儀」によって、それまでは普通の男の子が「五位少将」、十万石の大名に相当する位を授かる。

 長刀鉾の稚児は十七日の山鉾巡行で、四条通りに張られた注連縄を華麗な太刀さばきによって切るという大役を担っており、これは山鉾巡行の開始を告げる重要な儀礼として、毎年必ずテレビで放映される場面でもある。

(※注2) そもそも「稚児」とは、祭礼で神霊の依り代となる子ども意味し、神の代役としての重要な立場を担う存在である。稚児は本来は男女の区別はなく、女児が稚児を務める例もあるが、祇園祭では女人禁制が原則であり、特に山鉾巡行自体に女子の参加が禁じられているために、稚児も男児に限られている。

 なお今日でこそ長刀鉾以外のすべての鉾が人形の稚児を乗せるようになったが、かつてはどの鉾にも生き稚児が乗っていた。それがやがて種々の理由から生き稚児を廃して代わりに人形を乗せるようになっていっただ。

 その背景には、稚児は祭りに先立って相当期間、家族から離れて別火で炊いた食事をするなど、厳しい精進潔斎が求められ、また祭り当日は地面に直接足を触れさせないなどの特別な扱いを受けるため、希望者も減り、またその世話にも多大な労力と費用がかかることと、稚児が鉾から落ちて大怪我をしたりするなどの危険をともなうことなどの理由からだそうである。


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2006年07月15日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「神祭り」としての祇園祭、神幸祭と還幸祭

 豪華絢爛な山鉾巡行(※注1)は、いうならば祇園祭の「表」の顔であり、人々はそこにこの祭りの華やかさと豪華さに魅了され、平安絵巻が繰り広げられたハレの空間に酔いしれる。

 実は、これは八坂神社の神事ではなくて、各鉾町の町衆の祭りだ。八坂神社の祭りは別に、同時進行してるのである。メインは、神輿が八坂神社を出発する七月十七日の神幸祭と、還って来る七月二十四日の還幸祭だ。祇園祭は、約一月間かけて行われる長い祭りである。

 祇園祭は、山鉾とそれを取り巻く華やかなイメージのため、本来の神事が見落とされてしまっている。山鉾巡行の興奮が醒めやらぬ七月十七日夕刻、三基の御輿が八坂神社を出て、四条寺町の御旅所まで氏子区域を回る、いわゆる御輿渡御が行なわれる。

 七月十七日の神幸祭や七月二十四日の還幸祭は、「神祭り」としての祇園祭(本来の祇園祭)にとっては、山鉾巡行以上に重要な祭りであるはずなのだが、氏子以外の人たちにはほとんど意識されることなく、どちらかといえばひっそりと行なわれている。

 ましてこの御輿の渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る者は少ないようだ。この稚児は、木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」「久世駒形稚児」(※注2)と呼ばれてきた。これらは人々からはあまり省みられることなく続けられてきたもので、まさに祇園祭の「本来の部分」といえる。

(※注1) 御輿渡御や「馬上十二鉾」と離れ、鉾衆や作り山などの練り歩きは町衆の「イベント」として神事から独立した性格を持ち始めた。室町時代中期頃から、「山鉾巡行」と、祇園社の神の「御旅所」への渡御という神事は互いに独立していく。

 このようにして古代の祇園会はすっかり姿を変えたが、疫神を慰めるために楽を囃したて、舞い踊るという行為とその意味は保たれ続ける。

 初期の山鉾は小規模で人が乗るという形ではなかったため、囃子方や舞方は鉾や作り山と一緒に練り歩いたのだと思われる。やがて中世末期から近世初期にかけて山鉾は巨大化し、鉾には車がつき、囃子方も乗り込むようになり、現在に近い姿になった。その背景には、京都の商人が財力を持ちはじめたことにある。

(※注2) 七月十七日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないだろうか?。

 この稚児は木製の駒頭(馬の頭)を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とか「久世駒形稚児」と呼ばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体とされている木製の馬頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。

 十七日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向う。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。
 稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社に社参に向う。この時駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのだ。

 十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに(「皇族下馬」)、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえる。


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2006年07月14日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(五)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(五)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、山鉾巡行は各鉾町の町衆の祭り八坂神社の神事は、神幸祭と還幸祭

 祗園祭といえば、だれしもが四条通りが歩行者天国となり、街角を埋めつくす人たちでごったがえす宵山のどよめきと、総数三十二基の山鉾が都大路を練り歩く、豪華絢爛な山鉾巡行を思い出す。

 また山鉾をきらびやかに飾る、舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織なども、見る者たちを魅了する。祭りの表舞台に登場する山鉾(※注1)や世界の芸術品は、祭りを豪華に、また華やかに飾っている(山鉾風流)(※注2)。

 豪華絢爛な山鉾巡行が祇園祭と思っている人たちは、祇園祭は七月一日の吉符入りから、二十九日の神事済奉告祭まで(三十一日の疫神社・夏越祭)、約一ヵ月にわたって行なわれる祭礼であり、またこの祭りはもともと、都に疫病をもたらす荒ぶる霊魂を慰撫することを目的とした、いわゆる「御霊会」であることを知る人は少ないと思う。

 元々、この祗園祭は「祗園御霊会(ぎおんごりょうえ)」(※注3)と呼ばれ、昔疫病が流行したりすると、それを起こすと思われてた疫神や御霊の退散を祈願して、祗園社(今の八坂神社)の神輿を担ぎ出し、二条の神泉苑まで練り歩いて、疫神退散の「御霊会」をしたのが始りだそうである。

 ちなみにこの神輿を担ぎ出しのは、祗園社だけではなく、今宮神社でも疫病が流行ると神輿を出し、近く船岡山で「御霊会」をしたそうだ。地名から「紫野御霊会」と呼ばれていた。

(※注1) 祭りを厳かに演出するため、鎌型の鉾が朝廷より下された。これはやがて「馬上十二鉾」と呼ばれ、ひとつ数を増した鉾十三基と神馬五頭の姿に整う。鎌倉時代を通じて祇園祭は、三基の御輿と、「馬長」「渡物」「馬上十二鉾」などの行列が「御旅所」に渡御するという形をとり続けたようである(神輿渡御)。

 鎌倉時代から室町時代の頃、庶民がこの「馬上十二鉾」を真似し始めた。彼らは奇抜な装いで練り歩いたり舞い踊ったりして、人気を集めたが、時代は南北朝の混乱期に入る。この間は、祭りの興奮が暴動に変わることを恐れた幕府の圧力により、祭りは淋しいものになってしまったようである。

 また、貴族勢力の衰退により「馬長」などは姿を消した。しかし、祭りの主役が庶民へと変わり「鉾衆」は恒例化し、祇園祭の新しい形として定着していく。また同じ頃、伝説や物語のさまざまな情景や場面を再現した「作り山」も登場していく。そしてこの「鉾衆」と「作り山」が、現在の「山鉾」のルーツになるのである。

(※注2) 山鉾風流は、室町時代になって、当初からあった神輿渡御を中心とする神事に新たに追加された行事であった。その成立の背景については、京都の商工業に従事する都市民の成熟があったことが指摘されている。

 すなわち、いわゆる「町衆」といわれるそうした都市民の自治的な動向の中で、その自主的な祭礼として山鉾が成立したというのである。

(※注3) 平安時代初期(九、十世紀頃)、京の都には幾度も疫病が流行した。医学の未発達な当時の人々は、それを疫神や祟り神の祟りだと考えた。

 そこで、都のはずれで疫神にお経をあげたり、楽を演奏したりして慰め、町の外へ祓う儀式、「御霊会(ごりょうえ)」を行う。その頃の祇園は京の都の町外れにあたり、この「御霊会」がよく行われた。

 やがて祇園には、疫神を祓う威力があるといわれる、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られた。これが祇園社、現在の八坂神社になる。


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2006年07月13日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(四)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(四)

◆◇◆京都祇園祭、豪華絢爛な一大ページェント

 「祇園祭」は、七月一日の「吉符入り」にはじまり、三十一日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、一ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられる。

 祭りのハイライトは十七日に行われる三十二基の山鉾巡行。これらの山鉾のうち二十九基は重要無形民族文化財に指定されている。

 巡行は午前九時、四条烏丸から長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に河原町通を経て御池通へ向う。 途中、「注連縄(しめなわ)切り」「くじ改め」や豪快な辻廻しなどで見せ場を作り、豪華絢爛な一大ページェントが繰り広げられる。

◆◇◆祇園祭の行事/日時 行事の内容(7月1日~ 31日)

1日~5日 吉符入:神事始の意味で各山鉾町において、町内関係者が本年の祇園祭に関する打ち合わせをする。

2日 くじ取式:17日の山鉾巡行の順番をくじによって決める式。その後、各山鉾町代表者が八坂神社に参拝し、祭礼の無事を祈願する。

10日 お迎え提灯:午後4時半~午後9時 午後4時半頃から神輿を迎えるため、趣向を凝らした各種の提灯を持って行列。

10日 神輿洗:午後8時 午後8時頃、神輿の3基のうち中御座の神輿をかつぎだし、四条大橋まで運び、鴨川の水で洗い清める。

10日~14日 鉾建・山建:各山鉾町では、巡行の山鉾が収蔵庫から出されて組み立てられる。


13日 稚児社参:午前11時 長刀鉾にのる稚児が、午前11時、八坂神社へ参り「お位」をもらう。

14日~16日 宵山(祇園囃子):どの山鉾も夜は提灯が幾十となく点灯され、祇園囃子がにぎやかに奏でられる。 また屏風飾りといって町内の家で、部屋に飾られた屏風等を見学することができるところもあります。

17日 山鉾巡行:午前9時 午前9時に四条烏丸を、32の山と鉾が出発します。

17日 神幸祭:午後4時 3基の神輿が午後4時頃から氏子町内を巡行して、四条御旅所にとどまる。

20日~22日 狂言奉納:八坂神社の能舞台で、午前10時、12時、午後6時、8時の1日4回、狂言の奉納が行われます。

24日 花傘巡行:午前10時 「後のまつり」の巡行が17日の山鉾巡行と合併したため、山鉾の古い形態を再現するねらいではじめられたもので、花傘の10余基をはじめ京都花街のきれいどころの踊り、鷺舞、六斎念仏、子供御輿、祇園ばやし、稚児など総勢千人の行列が続く。

24日 還幸祭:3基の神輿が午後5時頃四条の御旅所を出て、氏子町内をまわり、午後10時ごろ神社へ帰る。

28日 神輿洗:10日の神輿洗と同様、四条鴨川で洗い清め、午後8時ごろ神社へ帰る。

29日 神事済奉告祭(八坂神社):祇園祭の無事終了を報告し神恩に感謝。

31日 疫神社・夏越祭(八坂神 社内・疫神社):鳥居に茅の輪を設け、参拝者がこれをくぐって疫病を祓う。


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2006年07月12日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノオの謎(三)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノオの謎(三)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、豪華絢爛な山鉾巡行による「祇園祭」

 保元・平治・応仁・文明などの乱のたびに祭礼は一端途絶えるが、すでに町衆の手に支えられていた「祇園祭」は町衆の手(町の人々のパワーと画家や工人たちの協力で乗り越えて)によってすみやかに復興するとともに、従来にも増して創意や趣向がこらされ、内容外観ともにますます豪華絢爛なものとなっていく。

 また、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文二年(一五三三)法華一揆に際して、室町幕府は神事停止をしたが、町衆の熱望により、“神事これなくとも、山鉾渡したし”と反抗した程である。(※注1)

 「祇園祭」が、今みられるような形(山鉾巡行や山鉾風流など)(※注2)になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易が盛んになり、町衆の繁栄により、舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織などが競って用いられるようになってからのことである(※注2)(※注3)。

 このように、「祇園祭」は、千百年以上の伝統を誇り、京都の歴史とともに歩んできたともいえる。最近、市内中心部にある山鉾町の人口減少など悩みはあるが、昭和五十六年に蟷螂山、六十三年に四条傘鉾が再興されるなど祭りはますます賑やかになってきている。

(※注1) もともと「山・鉾」は、「祇園御霊会」の神輿渡御に付随した出し物であり、いうならば神輿の先導役というべきパレードであった。しかしやがて華やかな「山鉾」や「風流拍子物(ふりゅうはやしもの)(鉦・笛・太鼓などにあわせて踊る一種のにぎやかな歌舞)」は神輿以上に見物人たちの注目を集めるようになり、ますます華美になっていく。

 「風流(ふりゅう)」とは、本来見る者たちを喜ばせ、あっと驚かせるような存在であったから、時とともに巨大化したり華美に変身してゆくのは当然のことでもある。

 また本来は厳粛な神事としての神輿渡御の先触れとしてのパレードであったものが、やがて独立し、十四世紀後半には神輿が出なくても鉾や山の巡行だけは行われるという事態になっていったようだ。

 その背景には、京都下京を中心とした町衆の成長と財力があったことはいうまでもない。「祇園社」の神事から独立した、町衆中心の「祇園祭」のルーツをここに見ることがでる。

(※注2) 十四世紀の南北朝時代に発生したと考えられる「山鉾」は、室町時代になると益々目立つ存在となり、一定の形式を具えるようになっていく。それは「鉾」・「山」・「傘」・「船」という多彩な形式である。現在の「祇園祭」に登場する三十二基の山鉾のうち、「傘鉾」は二基(綾傘鉾と四条傘鉾)、「船」は「船鉾」として残っている。

 これらの原型は十五世紀のはじめ頃には完成していたのだ。そして「山鉾」はさらに巨大化し贅をつくした装いを纏いながら発展していきた。応仁の乱以前の山鉾を記した史料には、何と五十八基の山鉾の名が記されている。

 その中のほとんどが「長刀ほこ(長刀鉾)」や「庭とりほこ(鶏鉾)」など、今日の山鉾と同じ名称が付けられており、今から約五百五十年前にはすでに今日の「祇園祭」と大して変わらぬ山鉾が都大路を巡行していたことが窺える。

(※注3) 江戸時代に何度か火災にみまわれた「山鉾」であるが、その都度構造的に脆い部分に改良が加えられ、強固な構造をもったものに変化し、組み建ての技術も向上していく。

 そして文化文政期(十九世紀前半)、古代から近世にかけて大変化をとげた祇園祭と山鉾は、現在のような形態に完成された。それからの祇園祭は、豪華な「山鉾巡行」をハイライトとする、町衆の力なしには行えない祭りとして今日に続いている。


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2006年07月11日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、京の夏祭り、祇園祭のはじまり

 祇園祭(祇園御霊会)は、京都三大祭の中でも、最も有名な祭りだ。例年、まだ梅雨のあけきらない七月中旬の蒸し暑い時に、十七日の山鉾巡行や、前日の宵山にも前々日の宵々山にまで、たくさんの人々が山鉾町あたりへ繰り出す。

 この祭りは、京の人々に融け込んだ恒例の夏祭りだ(山鉾巡行が終わると、夏の本番という)。祇園祭(祇園御霊会)は、四条通りの東の突当たり、京都盆地の東の端に位置する八坂神社の恒例の祭典である。

 その始まりは平安時代初期、貞観十一(八六九)年、京の都をはじめ日本各地に疫病(※注1)が流行したとき、その原因が疫神の祟りとされた。

 多数の死人が出たため、日本の国の数である六十六本の鉾を立てて神泉苑(中京区御池通大宮)に送り、悪疫を封じ込める「御霊会」(疫病退散の祈願)を行ったのが始まり(※注2)とされている。はじめは、疫病流行の時だけ行われていたが、毎年六月七日と十四日に恒例化するようになる。

 さらに、円融天皇の天延二年(九四六)、「祇園社(天神堂・感神院)」は「天台の別院」となり、都の中に「御旅所(おたびしょ)」を設け、祇園社の神様を、一定期間その「御旅所」にお迎えし自分達の町の悪い疫神や怨霊を追い払ってもらう御旅所祭礼(京中祭礼)=神幸祭・還幸祭(※注3)が行われる。

 翌年、「祗園御霊会」は「官祭」になったとされる。その後、「祇園社」の興隆とともに、祇園祭は「祇園御霊会」または、略されて単に「祇園会」と呼ばれて発展するようになった。

 そしてその後、保元・平治・応仁・文明などの乱のたびに祭礼は一端途絶えるが、すでに町衆の手に支えられていた「祇園祭」は町衆の手(町の人々のパワーと画家や工人たちの協力で乗り越えて)によってすみやかに復興するとともに、従来にも増して創意や趣向がこらされ、内容外観ともにますます豪華絢爛なものとなっていった。

 また、当時の町衆の信仰と勢力は次第に大きくなり、天文二年(一五三三)法華一揆に際して、室町幕府は神事停止をしましたが、町衆の熱望により、“神事これなくとも、山鉾渡したし”と反抗した程です。

(※注1) 古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのだろうか?。古代の人は漠然とではあるが「疫神」の仕業と考えていたようである。

 また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたのだ。このため、古くから「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」が行われていた。

(※注2) 貞観十一年に疫病が流行した際、卜部日良麻呂が、数年前の神仙苑の「御霊会」にヒントを得たのか、京の都の東方向の郊外にあたる八坂付近の人々を率いて、疫病をもたらす怨霊を神輿に封じて神仙苑へ送り込むような祭りを行った。

 『祇園社本録縁録』には「貞観十一年(八六九年)、天下大疫の時、宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため、卜部日良麻呂(うらべひらまろ)、勅を奉じて、六月七日、六十六本の矛(長さ二丈ばかり)を建つ。同十四日、洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神仙苑に送り、以て祭れり。これ祇園御霊会と号す。爾来、毎年六月七日と十四日、恒例と為す」とある。

(※注3)これは三基の御輿(牛頭天王と他二柱の神様)と、神官、稚児、巫女などの行列が「御旅所」に渡御(とぎょ)し留まった後、社に還るという形態であった。このような古い形態は、「神幸祭」と「還幸祭」として残されているが、稲荷祭や松尾祭にも残っている。今のような、山鉾巡行などなかった。


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2006年07月10日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(一)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(一)

◆◇◆京都祇園祭(祗園御霊会)、日本三大祭のひとつ

 「コンコンチキチン、コンチキチン」の音色(氏子たちが笛・太鼓・鉦で奏でる祇園囃子)を聞くと、いよいよ夏という感じだ。

 夏の訪れを告げる京都の夏の風物詩・「祇園祭」は八坂神社(※注1)の祭りで、大阪の「天神祭」・東京の「神田祭」とともに、日本三大祭のひとつに上げられており、その歴史の長さ、またその豪華さ、祭事(神事・祭礼)が一ヶ月(七月一日~七月三十一日)にわたる大規模なものであることなどで広く知られている。

 「祗園祭」はその昔「祗園御霊会(ぎおんごりょうえ)」といわれていた(後に「祗園御霊会」は“祇園会”と略され、一般に祇園祭とよばれるようになる)。この祭りは、京の人々に融け込んだ恒例の夏祭りである。

◆◇◆京都祇園祭(祗園御霊会)、日本と日本人の基層(原点と深層)-宗教民俗学の視点-

 京都祇園祭(祗園御霊会)は、京都八坂神社のご本尊(スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊)をまつる例祭である。この日に参詣すると特別なご利益が与れるという。

 「祇園祭」は七月一日(七月一日の「吉符入り」を皮切りに三十一日まで数々の祭礼が行なわれる)からおよそ一ヶ月間、京都東山区の八坂神社を中心に行われるが、祭りの山場は七月十七日の山鉾巡行と、その前夜の宵山だ。また家々では、秘蔵の屏風や家宝を玄間先に並ぺて祭りの雰囲気を盛り上げる。

 「祇園祭」は、およそ千百年に及ぶ伝統を持つ日本を代表する最大級の祭りである。しかも、「祇園社」が全国に勧請され、同じような「祇園祭」が全国で行われている。

 しかし、日本を代表する祭りでありながら、意外に知らない事が多いのだ。実は京都に住んでいる人でも、山や鉾がどのようなものか、祇園御霊会の意味や祇園祭の歴史について聞かれても、答えられない人も多い。

 この機会(七月は祇園祭本番)に、「祇園祭」を通して見えてくる、日本と日本人の基層を宗教民俗学の視点から考察してみたいと思う。

 たとえば、八坂郷と八坂氏、八坂神社の起源、祇園祭と八坂神社、祇園祭の歴史的変遷、祇園御霊会と牛頭天王(御霊会信仰の発生と成立)、牛頭天王とスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)の習合、御旅所祭礼(京中祭礼)と地縁的共同社会、山鉾の成立と発展、山鉾巡行と京の町衆、山鉾風流、祇園祭と稚児、祭りの現代的意義など、いろいろと取り上げていきたい。

(※注1)八坂神社は、江戸時代まで「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたが、七世紀斉明天皇二年に開かれ、社殿は天智天皇の頃に造られたとされる説もあるが、貞観十八年に南都の僧円如が八坂の現在地に堂宇を建てたという説が有力である。


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2006年07月09日

◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(二)




◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(二)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、御霊信仰と御霊会

 御霊信仰(※注1)とは、非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを尉和してその祟りを免れ安穏を確保しようとする信仰だ。日本は古来より死霊はすべて畏怖の対象であった。

 ことに怨みを抱いて死んだ霊は、その子孫に祀られることがなければ人々に祟りをなすと信じられていた。疫病や飢饉、そのたの天災があるとその原因の多くはそれらの怨霊や、祀られることのなかった亡霊の祟りとされていたのである。

 古来から御霊信仰と思われるものは文献上に記されているが、一般的に盛んになったのは平安時代以後のことだ。特に、御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになった。

 文献上の初見は『三代実録』貞観五年(八六三年)五月二十日条の記事にあるが、これは御霊会を朝廷が行なった記録であるが、民衆の間ではそれ以前から行なわれていたと考えられている。

 当然、政治的失脚者の個人を怨霊として恐れたのはその政敵だった人たちであり、一般民衆がそのような怨霊の個性を認めていたかどうかは疑問である。

 一般の御霊信仰は必ずしもそのように明白な特定の歴史的人格に結びつけることなく、むしろ一般にはなんらその実体の明らかならぬもの、知られざる怨霊に対する漠たる畏怖をもとに成立したものである(※注2)。

 その具体的な霊格(祭神名)は多くは巫祝の託言や創唱によるものであったようである。有名な紫野今宮など(※注3)多くの御霊会は単に御霊という以外に何ら特定の祭神名を称することがなかったようだ。

 御霊信仰は外来の信仰としての陰陽道や仏教の影響も少なくなく、特に仏教については亡霊追福を第一目的とする念仏信仰と御霊信仰とは互いに相結びついて中世以降の庶民信仰を強く色づけることになった。

 御霊信仰は日本において人を神に祀るもっとも一般的なケースとして、神道の一特質を考えるうえに重視されるべきものと考えられる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 御霊会とは、御霊を尉和遷却するために行なわれる法会や祭礼の汎称のことだ。文献の初見は『三代実録』貞観五年(八六三)五月二十日条の記事で、この日、疫癘防除のため勅命によって神泉苑で催された。『金光明経』や『般若心経』を講じ、舞楽や雑伎散楽が演ぜられ、縦覧をゆるされた市民とともに歓をつくしたとある。

(※注2) 御霊会はもともともっとも古い信仰に根ざし、ひろい民間習俗を背景とするものであっただけに、僧侶による読経講説よりも、木偶や神輿を作って民衆が賑やかな歌舞とともにこれを難波海に送って行くことが、むしろその祭礼の根幹をなしていた。正暦五年(九九四)年六月の船岡御霊会のことを記した『日本紀略』は特に「此非二朝議一起レ自二巷説一」と注している。

(※注3) 平安時代、疾疫や飢饉の頻発と相表裏して随時随所で民衆が相会して御霊会を行った。当時の文献によれば、手近なものだけでも紫野(今宮)・衣笠・花園・出雲寺・天安寺新造神社・西寺御霊堂・城南寺明神・熊野新宮御霊などを見つけることができる。中で有名なのが祇園・北野の両御霊会だ。

 平安時代末期(院政期)ころ一応定着したその神輿迎えと神輿送りの形式並びに随従する馬長や風流田楽は、神社祭礼の一つの典型となった。それは日本古来の氏神祭祀が祈年・新嘗両祭を中心に春秋二季の祭りを中心としてきたのに対し、疾病流行の時季(旧暦五、六月)に、夏祭りとして行なわれるようになったのである。


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2006年07月08日

◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(一)




◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(一)

◆◇◆京都祇園祭(祗園御霊会)、京の祭りの特徴

 京都では、大きな祭りは春から夏に集中する(葵祭・祇園祭・大文字送り火・愛宕の火祭り等など)。これは他の地域における一般的な年中行事のサイクルとは異なっている。

 一般的な日本の祭りは、農耕のサイクルによって年中行事が構成され、その結果、春の田植え前と秋の取入れ後に大きな祭礼が営まれることが多いのだ。

 特にその年の収穫を感謝し、翌年の豊饒を祈願する意味で、秋の農作業が一段落する時期に最も盛大に祭りが行なわれるケースがほとんどである(日本古来の氏神祭祀などは、祈年・新嘗両祭を中心に春秋二季の祭りとなる)。

 では、京都における祭りのサイクルはいったい何に基づくものなのであろうか(何によって決まるのであろうか)。

 昔は、春から夏にかけて疫病が蔓延し、人々は、為すすべもなく恐怖に慄くばかりであった。では、古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのであろうか。

 漠然とではあるが外から忍び込む「災厄」の何者かであり、それは「疫神」の仕業だと考えていたようだ(※注1)。また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたようなのである(※注2)。

 具体的に対策が取られるようになったのは、京都(山城国)に平安京が遷都されてからのことである。平安京では為政者は政争にあけくれ、多くの貴人が非業の死を遂げた。人々は怨みや未練を抱きながら亡くなっていった怨霊を恐れ、その結果「御霊信仰(怨霊を鎮め慰撫して災厄を祓い清める祭礼)」が生まれてくる(※注3)。

 もしかすると、時代は崇りを求めていたのかも知れない。人々は、為政者への天罰、怨霊の復讐を待ち望んでいたのかも知れない。一方の為政者も、密かにさもありなんと心のどこかでは「待ち望んでいた」のではないだろうか(だからこそ「崇り」が成立するのである)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)御霊会以前、『神祇令』の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』には、季春(旧三月)の恒例祭として「鎮花祭」(疫神が飛び散り、人々に疫病をもたらすことを抑え鎮める祭り。大神神社・狭井神社などで行われています)、季夏(旧六月)の恒例祭として「道饗祭(みちあえさい)」(疫神は外から入ってくるものとされ、京城の四隅や国堺(国境)で侵入を防ぐ祭り。県神社などで行われています)を疫神祭として説明しています。

(※注2)春から夏前の時期に「御霊会」が行なわれるのは、この頃が一番疫病の流行しやすい季節であったからである。現在でも六月から七月に梅雨明けするまでの時期は、もっとも食中毒や伝染病が逸りやすい時期だ。

 またこのことは梅雨の集中豪雨による河川の氾濫とも関係がある。すなわち、鴨川や桂川などの京都の河川は、かつてはよく氾濫した。河川の氾濫は水害であると同時に、その後には伝染病の流行という二次的な被害をもたらすことは今もよく知れていることである。

 つまり、天災による災厄と疫病の流行とは、常に一体のものであり、ゆえにこのような時期に、災厄や疫病の招来の根源とされている御霊を祀り、京の町の平安を祈願したのである。医療の方法もほとんどなかった当時としては、神仏に加護を求めるだけが頼りであった。

(※注3)御霊信仰のはじまりは、桓武天皇の廃太子、早良親王(崇道天皇)であったとされている。為政者への天罰、怨霊の復讐といった集団幻想が御霊信仰を生み出していく。このときから御霊会が始まり、平安京の都人を恐怖に落とし込んできた。

 疫病の流行や各地方で争乱が勃発し、朝廷はほっておけない社会的出来事になってくると、官民挙げての御霊会が行われるようになっていく。


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2006年07月07日

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(六)




◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(六)

◆◇◆七夕の起源:(6)、スサノオ命(須佐之男命)とアマテラス(天照大御神)

 『古事記』「高天原」説話に、スサノヲ命(須佐之男命)とアマテラス(天照大御神)誓約(うけひ)の際、「天の安の河」を挟んで相対する。ここには「天の真名井(神聖な井)」が登場し、誓約の儀式に「水」が非常に重要な意味を持つことがわかる。

 次に高天原において、アマテラス(天照大御神)の弟神であるスサノヲ命(須佐之男命)が荒れ狂い、乱暴狼藉の限りを尽くす場面がある。畦を壊し、水路を潰し、神殿を汚し、更には皮を剥いだ馬を屋内に投げ込む(天津罪)。これはアマテラスの天岩戸隠れの原因になる事件なので多くの方が知っている話だ。
 
 この時、馬を投げ込んだところが忌服屋(いみはたや)という、神衣(かむみそ)・神御衣(かんみそ)を織る神聖な機織りのための部屋である。この場面 は「棟(むね:原本では「頂」。屋根の意か)」に穴を開けてそこから馬を投げ込んだ、とあることから機織りのためだけに家屋があった、または他の仕事部屋と一緒であっても「忌服屋」と名がつけられている以上は、他とは仕切ってあったと考えらる(※注)。

 これらのことは、七夕の織姫(織女)と彦星(牽牛)の関係と、なんらかの共通性を示しているのかもしれない(類型説話)。また天岩戸隠れの条に、アマテラス(天照大御神)が岩戸に隠れた際、「下の枝には青い神衣、白い神衣を懸けて祈りを捧げた」とある。この神衣(かむみそ)・神御衣(かんみそ)を織るのは、神に仕える巫女の仕事だったといわれている。神衣は文字通り、神様に捧げる供物であると同時に、地上に降臨した神様に着せるための衣であったのだ。

 七に夕と書いて「たなばた」と読ませるが、元の表記は「棚機」だ。機は 「き」ではなく「はた」と読むから、これは織物を織ることを指す。 この織物は普段に着る着物ではなく神衣(かむみそ)・神御衣(かんみそ)と呼ばれる神に捧げるための布である。 

 「棚」は(普段生活するところよりも)一段上げて 作った場所のことだ。機を織るために特別に場所を作り、そしてその場所は一段上げることによって生活圏内と厳然と区切る。現代でも神棚を最も高いところに設えたり、地鎮祭で注連縄(しめなわ)を張ったりする。

 これは神の場所と人の場所、それぞれ区切っているわけだ。だから人が日常使用する服ではなく、神のための衣を織るのに棚を作るのは日常の生活空間から切り離し、非日常空間を構築するために必要なことであった。一種の結界ともいえるその場所で、身を浄めた織り子が神御衣を織るのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注) アマテラス(天照大御神・天照大神)も、また、棚機津女(たなばたつめ)の属性を帯びている。『古事記』上巻に、「天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、神御衣(かんみそ)を織らしめし時、(中略)天の服織女(はたおりめ)、見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき」。

 『日本書紀』神代上第七段本文には、「天照大神の、みざかりに、神衣(かむみそ)を織りつつ、斎服殿(いみはたどの)に居ましますを見て」。

 また、『日本書紀』神代上第七段一書第一には、「稚日女尊(わかひるめのみこと)、斎服殿(いみはたどの)に坐(ま)しまして、神之御服(かむみそ)織りたまう」。さらに、『日本書紀』神代上第七段一書第二には、「日神(ひのかみ)の織殿(はたどの)に居します時」などが、それを示す。


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2006年07月07日

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(五)




◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(五)

◆◇◆七夕の起源:(5)、七夕の変遷

 中国には、牽牛・織女の二星を、農耕と養蚕・染織をつかさどる星として、巧(たくみ)になることを乞(こ)ひ祀る(まつる)「乞功奠」(きこうでん)と呼ぶ古くからの風習があり、これが平安時代、貴族の間でも行なわれるようになった。

 清涼殿(内裏の御殿のひとつ)の東庭に莚(むしろ)を敷いて机(き)を置き、酒、肴、果物、菓子などと共に、五色の糸を通した七本の針や布などを供え、夜通し香を焚き、燈明をあげ、織姫にあやかって、裁縫や機織(はたおり)の上達を祈る祭りであった。

 その後、琴や琵琶なども置き、歌舞音曲などの技芸上達を願ったり、七つの硯(すずり)に、芋の葉に生まれる露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて、詩歌・文字の上達を祈るなど、次第に華やかなものとなっていく。

 今も京都御所北隣の冷泉家(れいぜいけ)の行事として、袿姿(うちきすがた=平安時代の女性の礼装)に装った歌道の門人たちによって古式ゆかしく乞巧奠(きこうでん)が行なわれ、座敷の南庭には「星の座」に供える品々が並べられる。

 中世の宮中では、七夕にちなんで「七遊」(ひちゆう)と称し、「歌」「鞠(まり)」「碁」「花札」「貝合」(かいあわせ)「楊弓」(ようきゅう)「香」におよぶ七種の遊びや、七百首の詩歌、七十韻の連句、七調子の管弦などが催され、「七献の酒」を酌み交わして、天皇や公卿(くげ)たちも大いに楽しんだという。

 江戸時代になると、庶民の間には歌や願いごとを書いた五色の短冊や切紙細工を吊るした笹竹を、家ごとに飾るという風習が広まりました。短冊の代わりに梶(かじ)の葉を使ったり、機織糸(はたおりいと)にみたてた素麺を食べるなど、いかにも楽しい、しゃれた祭りへと変身していったのだ(※注1)(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 七夕行事は、日本では孝謙天皇の天平勝宝七年(七五五)に宮中で催されたのが始まりとされている。古くは、七本の針に五色の糸を通して巧みな機織を祈り、琴を机の上において香炉を炊き、芸の上達を願った。

 蜘蛛占い(蜘蛛を小箱にいれ、翌朝巣の張り方を見て乞巧のききめを占う。巣が細かければ上達する)や、針占い(針を水面に浮かべ、椀の底にうつる影で占う。影がピンとしていれば吉)なども行なわれた。のちに、七夕行事として歌を供えるようになり、梶の葉に歌を書き、硯や筆などを供えた。

 江戸時代になると笹竹を立て、芋の葉の露で梶の葉に和歌を七首書いたりしたそうだ。やがて笹竹は長い竹となり梶の葉は短冊に代わって、願い事も裁縫・歌舞・詩歌から恋人・良縁・合格・幸福へと変遷し、今の七夕になっていくのである。

(※注2) 庶民の間では、日本古来の棚機の信仰が中国の織り姫・牽牛信仰と結びつき独自の発展を遂げていく。七月七日の七夕の夜に牽牛と織り姫が会い、翌日には天空に帰っていく。その時に 禊ぎ(みそぎ)を行い穢れ(けがれ)を持ち帰って貰うという考えで、七夕の竹飾りの風習ができたと言うことだそうだ。

 七夕には笹竹を立て五色の短冊を付け、その短冊に歌や手習いの文字を書きます。字が上手になるようにとの願いをあらわして、里芋の葉にたまった露で墨を擦って習字をすると字が上手になるという教えも生まれた。それから、笹竹に人形を結びつけ七夕の終わりに穢れ(けがれ)を持ち帰って貰うために川や海に流す習慣も生まれたが、これは七夕送り・七夕流しと呼ばれている。

 このように、七夕の竹飾りに願いを込めて書いた短冊を付け祭りの期間が終われば笹竹ごと水に流すという風習は、日本独自のもののようだ。この竹飾りは次第に派手さを競うようになり、仙台の七夕・平塚の七夕などでは、豪華な吹き流しを付けたり紙細工による飾り物を付け、客寄せの飾り付けとなっていく。


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2006年07月07日

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(四)




◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(四)

◆◇◆七夕の起源:(4)、祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事

 日本の農村では既にそれ以前より、棚機女(たなばたつめ)という巫女(※注1)が、水辺で神の降臨を待つという「禊ぎ(みそぎ)」の行事(※注2)があった。

 七夕伝説自体は、中国・日本だけでなく、朝鮮半島・東南アジアの国々に広く分布しているが、アジアの七夕伝説は、大水で流されて二人が離ればなれになったり、水はよくないものとする傾向が強いのだそうだ。それに対し、日本の農村の七夕では、雨が降ると穢れ(けがれ)を祓うという意味で、水をよいものと捉える傾向がある。

 この行事は、ちょうど稲の成長期である、旧暦のこの時期(八月)は、農家にとって雨の欲しい時期でもあるため、七夕は「水神祭」であるとも考えられ、神社等で雨乞いの行事も行われたそうでだ。れっきとした日本の伝統に基づいた「雨乞い」の儀式でもあったのである。

 このように、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水に関わる農耕儀礼の性格を持ち、さらに、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」「七日盆(なぬかぼん)」という祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事や、胡瓜や茄子を神の乗り物の馬や牛の形にして供え、田畑の収穫を神々に感謝する庶民の祭りがこれに加わり、日本独特の七夕行事が生まれた(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 棚機津女は、水辺で機を織りながら神の訪れを待つ少女のことである。『日本書紀』は、ニニギ命(瓊瓊杵尊)の妃となるコノハナサクヤ姫(木花開耶姫)を、「神代下第九段一書第六」において、「かの先立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉も、もゆらに、機織る少女」というように棚機津女として描いている。

 その織り上がった織物は、神が着る衣(神御衣)であり、少女は神に仕えて神の精を妊み、神の妻となる巫女となるのだ。かくして、棚機津女もまた神として祀られる。『延喜式』は尾張国山田郡に「多奈波太神社」を、河内交野原の天棚機比売を祭神とする「機物神社」を記している。

(※注2) 日本には棚機津女(たなばたつめ)という、七月六日から七日に関係する信仰が昔からあり乙棚機(おとたなばた)とも呼びました。棚機津女とは、この時期に訪れる神様を迎えて祀るため、町や村の乙女が水辺の機屋(はたや)に籠もるというものです。七月六日に訪れた神様は、翌日の七日に帰ります。このとき水辺で禊ぎ(みそぎ)を行うと災難とのかかわりを取り去ってくれると考えられ、七夕に水と関係がある行事が多く行われるのはその名残といえます。たとえば青森県の「ねぶた祭」などはもともと形代に災難とのかかわりを移し水に流す行事であったといわれています。またこの日は七回水浴びをすると良いとも伝えられています。

(※注3) 日本には、古来から盆迎えの祓(はら)えの信仰があった。七夕は五節句のひとつで、盆の前の禊(みそぎ)の日であり、笹竹やお供え物を川や海に流し、罪や穢れを祓う「七夕送り」を行う。この時期に訪れる神様を迎え、穢れを神に託す棚機津女(タナバタツメ)の行事も伝えられている。

 盆(七月十五日)に先立ち、先祖の霊を迎えるための祭壇を作ったり、旗や幟をたて、七月六日の夜には「棚機女(ばたつめ)」と呼ばれる乙女が水辺の機屋で神様にささげる衣を織り、棚に置く。翌日七月七日の夕べ、棚機女が機屋から出てきたとき水辺で七夕送りの禊(みそぎ)をしたという。

 「たなばた」は古くは「棚機」と表記していたが、七月七日の夕べの行事であったために「七夕」の字をあてたと言われている。七夕は麦の実りを祝い、キュウリやナスなどの収穫を神に感謝する収穫祭の時期でもある。この祭りのとき、人々は神様の乗り物としてキュウリの馬、ナスの牛を供え、お盆にご先祖様の乗るキュウリの馬とナスの牛に引き継がれている。


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2006年07月07日

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(三)




◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(三)

◆◇◆七夕の起源:(3)、「乞功奠(きこうでん)」の風習

 中国には、牽牛・織女の二星を、農耕と養蚕・染織を司る星として、巧(たくみ)になることを乞(こ)ひ祀る(まつる)「乞功奠」(きこうでん)と呼ぶ古くからの風習(※注1)があり、これが平安時代、貴族の間でも行なわれるようになる。

 清涼殿(内裏の御殿のひとつ)の東庭に莚(むしろ)を敷いて机(き)を置き、酒、肴、果物、菓子などと共に、五色の糸を通した七本の針や布などを供え、夜通し香を焚き、燈明をあげ、織姫にあやかって、裁縫や機織(はたおり)の上達を祈る祭りであった(※注2)。

 その後、琴や琵琶なども置き、歌舞音曲などの技芸上達を願ったり、七つの硯(すずり)に、芋の葉に生まれる露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて、詩歌・文字の上達を祈るなど、次第に華やかなものとなっていく。

 今も京都御所北隣の冷泉家(れいぜいけ)の行事として、袿姿(うちきすがた=平安時代の女性の礼装)に装った歌道の門人たちによって古式ゆかしく乞巧奠(きこうでん)が行なわれ、座敷の南庭には「星の座」に供える品々が並べられる(※注3)。室町時代以降、民間にも広まったという(※注4)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「乞功奠(きこうでん)」のような風習は、おおむね、奈良時代に中国から我が国にも伝えられました。その頃、この行事は「乞巧奠」と呼ばれ、「巧みであることを乞う祭典」という意味です。それは、女たちだけで営まれる女の祭りでした。現在のように、短冊をつるした笹竹を立てるというだけのものではなく、女たちは美しい衣装をまとい、ある限りの装身具を身に着け、庭にしつらえた台の上には、酒や瓜や餅などを供え、日頃自分たちが作った手仕事の作品を供えました。そして、香を焚いて天を礼拝し、手仕事の上達を祈りました。その上で、女たちは、七本の針の孔に色糸を通しました。

(※注2)上田正昭氏(京都大学名誉教授)によると、「私も庭園の文化に道教の影響があることは実感している。(中略)キトラ古墳の天文図に関連して興味深いのは七夕の信仰だ。七夕の信仰の起源は中国だが、北朝鮮の徳興里古墳の壁画にも、天の川と牽牛と織女が描いてある。五世紀初めには高句麗に七夕の信仰が入っていたことは確かだ。日本ではどうかというと、持統天皇の五年(六九一年)から宮中で年中行事として七月七日に宴を開いている。これは七夕に間違いないと思っていた。そして梅原さんも指摘されているが、万葉歌人の柿本人麻呂の歌集の中に七夕の歌がある。六八〇年の歌。ひょっとしたら、今回見つかった苑池で七夕の宴が開かれて人麻呂たちも参加していたのではないか。」と話す。

(※注3)七夕の行事は、公式の宮中節会としては失われていくが、宮廷貴族の間では個々の家において、その年中行事として続いていく。藤原俊成・定家以来、和歌を家職とし、その伝統を今日まで伝えている冷泉家では、現在でもなお、年中行事として、乞巧奠を行っている。

 もとより和歌の家のこととて、夜空の星に祈るのは和歌の上達であり、織物や縫い物などの女性の手仕事の品を供えるのではなく、星を祭る祭壇に向かって、自らが作った和歌を朗詠するという。

(※注4)江戸時代になると、七夕の行事は民間にも広がる。この頃、「習字の上達を祈願して」笹に願いを書いた短冊をつけて飾る風習が生まれたようだ。

 また、乞巧奠の流れを汲む七夕は、江戸時代に定められた五つの節供(1/7七草(人日)の節句、3/3桃(上巳)の節供、5/5端午の節供、7/7七夕の節句、9/9重陽の節供)のうちの一つとして定着し、武家・町人の社会に広がります。一方、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水にかかわる農耕儀礼の性格を持ち、更にそれに盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事としての要素が加わる。

 日本古来の伝承(棚機女=たなばたつめの伝説)や風習(穢れを祓う行事)と、中国の行事(乞巧奠)がうまく混ぜ合わさったからこそ、七夕はいまでも日本の各地にさまざまな形で、大切に伝えられているのかもしれない。


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2006年07月07日

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(二)




◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(二)

◆◇◆七夕の起源:(2)、古代中国の牽牛織女の伝説

 天の川の東に織女と呼ばれる麗しい乙女がいた。織女は機織を天職としており、毎日明けても暮れても機を織りつづけ、髪を結う暇さえなかった。そんな織女の姿を見た天帝は可哀そうに思い、天の川の西に住んでいた牽牛という男と結婚させることにした。しかし幸せな結婚生活にすっかり酔ってしまった織女は、一日中牽牛の傍から離れず、機織の仕事を放棄してしまう。

 それを知った天帝は不心得千万と怒って、「即刻天の川の東に戻って機織の仕事をするがいい。愛に溺れて仕事をなおざりにするとは何事か!今後牽牛とは年に一度だけ会うことを許すことにするから、そう心するがよい!」と織女を叱る。

 織女は天帝の言いつけに背くことも叶わず、天の川の東に戻り、牽牛に会える日を待ちわびながら、懸命に機を織り続けたのだ。待ちに待った七月七日に雨が降って天の川の水かさが増すと、ふたりは東と西の川岸からただ恨めしげに水面を見つめ続けることしかできない。そんなふたりを見かねた鵲(かささぎ)が、天の川を渡す橋となって、織女を東から西の川岸へと渡してあげるという。

 これは、『述異記』の星辰説話(せいしんせつわ)「牽牛織女」(※注)である(『述異記』は明代の張鼎思(ちょうていし)『琅邪代酔篇(ろうやだいすいへん)』に引く文によるもの)。織女=織姫は琴座のべガ、牽牛=彦星はわし座のアルタイル。ちなみに天帝は北極星である(※注)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 中国の古典の中での七夕の二星の初見は『詩経』の中の「小雅」の「小旻篇」で、皇帝などの役人がすべきことをしないことを嘆き、その例えとして「織女星は機を織らず、牽牛星も牛をひかない」といった表現で出てくる。ここには恋愛物語の影は見られない。他に『文選』や『四民月令』などにも書かれているそうだが、ここでも恋愛物語の片鱗も見られない。

 それが『月令広義』や『爾雅翼』になると今に伝わるような物語になるそうだ。つまり漢代(B.C.一~二世紀)には今のような物語になったと推測される。七夕物語は大きく二つのパターンに分けられる。一つは機織姫と牽牛の結婚・別れ・再会物で、もう一つは羽衣伝説と言われる物語だ。後者は日本でも地方のオリジナル色の付いた物語として根付いている(琉球地方に多い)。

(※注) 梅原猛氏(国際日本文化研究センター顧問)によると、「七夕というのは牽牛、織女の話。牛は稲作農業には欠かせない。織女も機織で養蚕と関係がある。中国では黄帝の時代、ヒエ・アワ農業の北方民族が、稲作と養蚕を行う南の民族を滅ぼして統一する。黄帝の妻は南方の絹織物に大変興味を持って、南から機織の女をたくさん北へ連れて行ったという伝承がある。妻に会いたいという夫の悲しみが七夕の伝承を生み出したのではないかと、想像する。その養蚕の文化がどのように高句麗に伝わり、百済や新羅を経て日本に来たか。大変興味がある。」と話しています。

(※注) 夏の夜空、天の川を挟んで、ひときわ明るい光を放ちながら、相対する二つの一等星がある。東に位置するは琴座の主星「ベガ」(Vega)、西にあるのが鷲座の主星「アルタイル」(Altail)、その中間の天の川にあるのは、白鳥座の五つの星が作る北十字星だ。それらは、星空に壮大なロマンを描き出す七夕の星たちである。

 中国では、ベガが、その近くの二つの星とで作る小さな三角形を「織女」と呼ぶ。アルタイルを真中にして、その両隣の二つの星とで作られる小さな一直線を「牽牛」(あるいは牛郎)と呼ぶ。白鳥座の十字形をなす星たちは「天鵞」と呼ぶ。

 我が国では、織女三星を「織姫」(あるいは「たなばた姫」)、牽牛三星を「彦星」、そして、天鵞の十字星を「かささぎ(鵲)星」と呼ぶ。織女と牽牛とは相思相愛の仲であるが、いつもは、天の川に阻まれて逢うことが出来ない。しかし、一年にただ一度、七月七日の夜だけは、鵲が両翼を広げて天の川の上に架けた橋を渡って、逢う瀬の一夜を過ごすことができるだ。それが、七夕の夜なのである。


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2006年07月07日

◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(一)




◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(一)

◆◇◆七夕の起源:(1)、日本の「棚機津女」と中国の「牽牛織女」の伝説

 「七夕」と書いてなぜ「たなばた」と読むのか?と、不思議に思う人もいるかもしれない。日本には、その昔、人里離れた水辺の機屋(はたや)に棚をつくり、訪れる女神が機(はた)を織るという古代信仰(※注1)(※注2)があった。

 飛鳥時代になると、この信仰に古代中国の牽牛織女(けんぎゅうしょくじょ)の伝説が加わる。伝説は天の川の東岸に住み、あでやかな天衣(あまのころも)を織っていた織女(織姫)が、西岸に住む牽牛(彦星)を愛するようになる。しかし父・天帝はそれを怒り、別れさせてしまう。それでも年に一度、七月七日の夜だけは、川を渡って愛しあうことが許されたという物語だ(※注3)。

 「恋ひ恋ひて 逢う夜はこよひ 天の川 霧たちわたり あけずもあらなむ」(霧よ、今宵だけは明けないようにしてあげて)と祈る『古今和歌集』の詠み人。やさしい日本人の心情が伝わっくる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 日本には棚機津女(たなばたつめ)という、七月六日から七日に関係する信仰(民間の行事は、最初は七月七日はなく、六日の晩から七日の朝にかけての行事であり、七日に笹を川に流す物忌みと禊ぎ‘みそぎ’の行事であったとの説もある。元々小正月〈1月13-15〉の「望みの正月」に前段となる正月七日の行事〈現在は七草として残っている>に相対しての、盆の開始の行事だとの説もある)が昔からあり、乙棚機(おとたなばた)とも呼ばれた。

 棚機津女とは、この時期に訪れる神様を迎えて祀るため、町や村の乙女が水辺の機屋(はたや)に籠もるというものだ。七月六日に訪れた神様は、翌日の七日に帰える。このとき水辺で「禊ぎ(みそぎ)」を行うと災難とのかかわりを取り去ってくれると考えられ、七夕に水と関係がある行事が多く行われるのはその名残とされる。

 たとえば青森県の「ねぶた祭」などはもともと形代に災難とのかかわりを移し水に流す行事であったといわれている。またこの日は七回水浴びをすると良いとも伝えられている。

(※注2) 仙台の「七夕」 は、青森の 「ネブタ」、弘前の「ネプタ」、秋田の「竿燈」、能代の「七夕燈籠」など共に東北中心に分布する「ネムリ流し」の祭事に連なる系統といわれている。

 この祭祀の変遷も、土着の信仰が神道と関連されて成立した説話や、道教や儒教の影響を色濃く残す宮廷行事や、そして仏教の浸透と習合など、多様な伝承世界を持つ、日本的な世界観の表れだ。

 「ネムリ流し」とは、睡魔を様々な形の人形や、竹等に託して、川に流した行事であるとされ、「ねぶた祭り」の唱え言葉の原形である「ねぶた流れよ、まめ(勤勉)の葉よとまれ」が本幹を表し、田植えを終え、秋の刈り入れまでの勤勉を誘い無病息災を祈る農耕祭の色彩も強いようだ。

(※注3) 織女と牽牛は、なぜ、七月七日の夜しか逢えないのであろうか。それについては色々な伝えがある。一般に語られている物語はこうだ。

 「織女は天帝(あるいは道教の神西王母)の娘(あるいは孫娘)です。彼女は働き者で、しかも非常に器用で、いつも機(はた)を打って、美しい天衣を織りあげていた。天帝は、独り身の彼女を、天の川の西に住む若い美しい牛飼いの青年と結婚させる。結婚すると、二人は互いに夢中になってしまい、彼女は機織(はたお)りの仕事をやめてしまい、男も牛を飼うことをやめてしまった。それを見て天帝は怒りを発し、彼女を天の川の東へ連れ戻してしまう。引き裂かれ、打ちひしがれて、泣き暮らす二人を、天帝もさすがに哀れと思い、一年に一度、七月七日の夜だけ逢うことを許す」と云うものだ。


スサノヲ(スサノオ)  

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 03:00Comments(0)スサノヲの日本学