2006年07月07日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(七)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(七)

◆◇◆七夕と『竹取物語』、隼人(海人族・海神族・南九州)の竹文化(竹民俗)

 隼人(海人族・海神族・南九州)は竹文化(竹民俗)と関係が深く、朝廷によって畿内に早くから移住させられ、竹器製作に従事していた。また、大和国吉野などには竹林が移植されていた。隼人の畿内の移住を通して、奈良あるいは平安時代の竹文化(竹民俗)が伝承されていったようだ。

 ここには、隼人(海人族・海神族・南九州)の竹文化(竹民俗)と『竹取物語』の関係がある。『竹取物語』は、隼人に伝承されてきた説話や中国華南の説話(竹や羽衣をモチーフにした伝承説話)などが、日本で段階的に「説話」から「物語」へと発展し、平安初期にはほぼ今見るような「物語」として定着していったようなのだ。

◆◇◆七夕と『竹取物語』、「かぐや姫」と満月信仰・観月民俗
 
 かつて日本の基層文化(南方モンゴロイドがもたらした、ニッポンの焼畑イモ文化・汎アジア文化)として、観月ならぬ「月見」行なわれていた。月見は正月以前の「正月」であったとされている。この忘れられた民俗の古層から生まれたのが「かぐや姫」であったのであろうか。

 こうした「十五夜」「月見」との関連から、満月信仰や観月民俗が「かぐや姫」(かぐや姫という名前は、光を意味する「かがよふ」からきているとも)を誕生させたとの指摘もある。

◆◇◆七夕と『竹取物語』、かぐや姫にまつわるさまざまな説

 かぐや姫と『古事記』の迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)との関連を指摘する説では、『古事記』上巻で豪族・大筒木垂根王(おおつつきたりねおう)の娘として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が登場する。

 京田辺市内には集落「大筒木郷」があったとされ、大筒木垂根王がこの地域の長で竹取物語の「竹取の翁」だと推定し、「京田辺が竹取物語の発祥地」という説を唱えている。

 他にも、全国で「竹取物語」に関係するとされる場所は静岡県富士市、奈良県広陵町、京田辺市、京都府向日市、香川県長尾町、岡山県真備町、広島県竹原市、鹿児島県宮之城町などがあり、それぞれに伝承が残されている。


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2006年07月06日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(六)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(六)

◆◇◆七夕と『竹取物語』、ふじの煙(富士の煙)、原文

 『竹取物語』末尾・「ふじの煙」の原文は、こうだ。「その後、翁・女、血の涙を流して惑へど、かひなし。あの書おきし文を読み聞かせけれど、『なにせむにか命もをしからむ。たがためにか。何事も用もなし』とて、薬も食はず、やがて起きもあがらで、病み臥せり。中將、人々具して帰りまゐりて、かぐや姫を、え戰ひ止めずなりぬる事、こまごまと奏す。薬の壺に御文そへ、まゐらす。ひろげて御覧じて、いといたくあはれがらせ給て、物もきこしめさず。御遊びなどもなかりけり。大臣上達を召して、『いづれの山か天に近き』と問はせ給ふに、ある人奏す、『駿河の国にあなる山なん、この都も近く、天も近く侍る』と奏す。これを聞かせ給ひて、《逢ことも涙にうかぶ我身には死なぬくすりも何にかはせむ》かの奉る不死の薬に、又、壺具して、御使に賜はす。勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし仰せ給ふ。そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を『ふじの山』とは名づけゝる。その煙、いまだ雲のなかへたち上るとぞ、言ひ伝へたる。」

◆◇◆七夕と『竹取物語』、かぐや姫とコノハナサクヤ姫

 『竹取物語』末尾・ふじの煙(地名起源説話・富士縁起譚)には、後日談として、かぐや姫が月に帰る際、地上での生活の御礼にと翁や帝に残していった「薬の壺」のエピソードが語られている。帝は貰った不死の薬を、「かぐや姫にもう会えないのなら、不死の薬も意味がない」として、天に最も近い山で焼いてしまうように臣下に命じる。

 この山は後に「ふしの山」、富士山と名付けられたそうだ。この富士山には徐福伝説や蓬莱伝説などが伝承されており、また浅間神社があり、その祭神はコノハナサクヤ姫である。「かぐや姫」とはコノハナサクヤ姫の別名という説もあるのだ。

 また、不死の薬が月の世界にあるというのは、中国の伝説でも語られている。張衡『霊憲序』によると、西王母から不死の薬をいただいたゲイ(難しい漢字)の妻、仙女嫦娥(じょうが)が薬を奪って月へ行き、月の都を建てたのだという。

 もしかすると、かぐや姫は嫦娥(じょうが)の宮殿に住んでいたのかもしれないかも? 『竹取物語』の中には、不老不死の神仙思想(道教の神秘思想)を見ることができる。奈良・平安初期の人々が厚く信仰したのは仏教や陰陽道(陰陽五行に基づく呪術体系)であり、そのうえに「天の羽衣」のような天女伝説が融合・接合したようにも思える。


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2006年07月05日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(五)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(五)

◆◇◆七夕と『竹取物語』、「竹中生誕説話」と「三のこだわり」

 『竹取物語』の特徴は、羽衣伝説に加えて「竹中生誕」にある。すなわち、竹から生まれたこととその小ささだ。竹取の翁(おきな)がかぐや姫を竹の中に見つけたとき、彼女は三寸くらいの女の子だった(三寸というと、大体9~10cmほど)。こうしたかぐや姫の誕生は、「竹中生誕説話」といわれている。

 竹は、その驚異的な生長力(「タケ=長ける、猛る」)や、不死と見紛うほどの生命力から、神秘な力を秘めた神聖な存在として、信じられ尊ばれてきた。また、邪霊を払う呪力を持つとされ、弓矢にも使われた。さらに、成長した竹の空洞は女性の子宮にあたるとも言われ、かぐや姫はそういう竹の節が作る神聖空間に生まれたとしている。

 また、『竹取物語』は「三」にこだわる物語だ。かぐや姫を竹の中に見つけたとき、三寸くらいの小ささである。それから「三月(三ヶ月)」の間に普通の背丈まで生長し、その成人のお祝いを「三日」かけて行う。

 彼女への求婚者は現在伝わっている物語・「五難題」型求婚説話(五人の貴人の求婚)では五人だが、文章の中に元は「三人」だったのではないかと思わせる痕跡が残っている(初めは昔話常套の三題物であり、その三題にも幾種かある)。この時、姫から難題を出された求婚者たちはその難題に「三年」かけて取り組み、全員失敗する。

◆◇◆七夕と『竹取物語』、「五難題型求婚説話」と五人の貴人(貴公子)

 江戸時代末期に『竹取物語考』と言う本で加納諸平が、この五人(石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行・中納言石上麻呂足)は奈良時代の「壬申の乱」に関係のある人物の名前であると推定している。

 また『竹取物語』には、かぐや姫に求婚する五人の貴公子の官職と名前がはっきり書かれている。確かにかぐや姫は竹から生まれた架空の人物かも知れないが、かぐや姫に求婚する五人の官職と名前が『日本書紀』に記載されていることから、この物語のモデルとなった場所、年代がわかってきた。

◆◇◆七夕と『竹取物語』、五人の求婚者の名前と難題物

 求婚者の名前と難題物、さらには語源譚を一覧にしてみるとその構成が巧みだ(「五難題」型求婚説話)。 また、五人「壬申の乱」(六七二年)に活躍した実在の豪族の名が使われている。

(1)石作皇子(いしつくりのみこ)-仏の御石の鉢-「はち(鉢・恥)を捨つ」:丹比嶋真人?(たじひしままひと)と同一人物
(2)車持皇子(くらもちのみこ)-蓬莱の玉の枝-「玉(魂)さか(離)る」:藤原不比等?(ふじわらふひと)と同一人物 
(3)右大臣阿部御主人(うだいじんあべのみうし)-火鼠の皮衣-「あへ(あべ)なし」:実名通り
(4)大納言大伴御行(だいなごんおおとものみゆき)-龍の頸の玉-「あな食べがた(難)」:実名通り
(5)中納言石上麻呂足(ちゅうなごんいそのかみのまろたり)-燕の子安貝-「かひ(甲斐・貝)あり」 :物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と同一人物


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2006年07月04日

◆7月7日の七夕、星の物語と祓の行事




◆7月7日の七夕、星の物語と祓の行事

◆◇◆七夕は星の物語と「祓」の行事、盆と深く関係する民間行事

 7月7日は、牽牛と織姫が1年に1度だけ天の川で出会う日とされいる。美しい星空を見上げながら、そんな星物語が語られる七夕であるが、わが国では、旧暦の七夕はちょうど夏の収穫の時期とも重なり、この七夕の日は作物の実りを神様に感謝する収穫祭の日でもある。

 他の多くの行事がそうであるように、七夕も元々は中国から渡って来たものであった。神の怒りをかって天の川の両側に隔てられた二つの星が、カササギの橋を渡って1年に一度だけ会える夜とされている。私たちがよく知る、この牽牛(けんぎゅう、彦星)と織女(しょくじょ、織姫)の物語もその発祥は中国なのである。

 織女星は糸や針を司る星だったことから、この日に2つの星にお供えをすれば、織姫にあやかって機織りや裁縫が上手になるという言い伝えが生まれ、やがてそれは「乞巧奠(きこうでん)」という儀式になった。この2つの星の物語と「乞巧奠」が一緒になって日本に入ってきたのが、そもそもの始まりである。

 この「乞巧奠(きこうでん)」は、奈良時代以降に宮中の年中行事に入り、室町時代には詩歌・管弦のの遊びや、芋の葉に溜まった露を使って墨を擦り、和歌を詠むことなども追加された。江戸時代になると、民間行事の中から手習いの上達を願う意味が追加され、竹に願い事を書いた短冊を結び付けて縁側や軒に立てることが広まる。

 一方、日本には「棚機(たなばた)」に関連する「祓(はらえ)」が、旧暦の7月7日頃に行われていた。棚機とは、布を織る機織器のことである。これは、お盆に先祖をお迎えする前に、村人たちの穢れを神様に持ち去ってもらおうとする神事で、奥深い水辺の機屋に穢れを知らない棚機津女(たなばたつめ、布を織る女)が篭って神をお迎えし、お祓いをするというものであった。

 この行事が7日の夕刻、「七夕」と書いて「たなばた」と読ませるのもここから始まっています。また、七夕には多種多様な行事が各地あり、真菰で作った「七夕馬」・海や川へ流して穢れを祓う「七夕送り」などがあります。この後に続く盆との関係からか、身を清めて物忌みをする日・穢れを祓う日と考えられていたようです。

 本来、旧暦5月5日(端午の節句)は、田植えなどの農作業の時期にあたり豊穣豊作を祈願する日であった(都市部では多湿な季節を無病息災に過ごせるよう厄祓いする日である)。そして、旧暦の7月7日(七夕)は梅雨明けの祭り・行事の日である。

 しかし、明治政府は明治六年(1873年)、旧暦から新暦へと変更すると端午など五節句を廃止したため、雛祭り・端午の節句・七夕は一時衰える。しかし、その後七夕は新暦7月7日に、年に一度の星祭りとして短冊に願い事を書き笹の枝に結ぶ行事として盛んになっていくのだ。

 各地の残る民俗行事では、女性が髪を洗い、水浴びや行水を行い、井戸をさらい、膳洗い、硯洗い、虫払いをするなど、梅雨の間の穢れを水で祓う(梅雨の穢れを水に流すなど水に関連した)行事が多く伝わる(現在は、新暦・旧暦・月遅れと地方によって異なっている)。

 それは山青く水清き日本列島の自然環境(東アジアのモンスーン地帯の稲作文化圏でも降雨量の多い国、梅雨文化圏)が、日本人の自然観や素朴な神観念を生み出していく。特に水への信仰は、生きとし生けるものを育み、すべてを清めるとの観念があったのだ。

 こうして、日本列島の自然環境とそこから生まれた精神風土は、日本に独自の「水の文化」「水の信仰」を育んだのである。


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2006年07月04日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(四)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(四)

◆◇◆七夕と『竹取物語』(『竹取翁の物語』、『かぐや姫の物語』)

 七月七日は七夕である。七夕と聞くと、竹笹の枝に色とりどりに飾られる、願いをこめた短冊が思い浮ぶ。また、七月七日は「竹・たけのこの日」でもあるそうだ。全日本竹産業連合会が、一九八六年(昭和六十一)に、この日を「竹・たけのこの日」と定めた。

 理由については、農産物関係者が集まった席で「かぐや姫が生まれたのはいつだろう」という話になったそうだ。出席者の中から、「七月七日じゃないだろうか」という発言がでたことで、「竹・たけのこの日」(竹・たけのこのPRデー)が定められたそうである。かぐや姫は竹から生まれたので、かぐや姫の誕生日を竹にちなんだ記念日にしたそうである。

 『竹取物語』の冒頭には「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事に使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、本光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光たり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしくしうて居たり。翁いふやう、『われ朝ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ、子になりたまふべき人なんめり』とて、手にうち入れて、家へ持ちて来ぬ。妻の嫗に預けて養はす。うつくしきこと限りなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。」とある。

◆◇◆七夕と『竹取物語』、『竹取物語』と「羽衣伝説(天人女房説話)」

 かぐや姫を主人公とする『竹取物語』は、七夕と案外関係があるのかもしれない。この物語は古い説話などの要素を取り入れて、作られたと言われているが、羽衣伝説(天人女房説話)も影響を与えた要素の一つとされている。

 地上に降りて来た天女が水浴中に、人間の男により羽衣を隠され、天に帰れなくなる。天女は仕方なくその男と夫婦になるのだが、やがて羽衣を取り返して天に去ってしまう、という羽衣伝説だ(『丹後国風土記』逸文の奈具社の天女説話など類似の先行伝承がある。この残された天女は豊受大神だともされている)。

 また、三輪山型説話のような、「異郷」から来訪する神と地上の人間との婚姻を語る「神婚説話」とみることもできる。

 このタイプの伝説は、日本だけでなく世界中で語り継がれているが、その中には、羽衣を取ったのは老夫婦で、天女はその養女になる、というものや、天女に去られた男が、後を追って昇天し七夕の星になる、というストーリーもある。

 このタイプが分布しているのは中国と日本だそうで、老夫婦タイプも、昇天タイプも、かぐや姫と七夕と密接な関係を感じさせる(遙か昔から、東アジア・東南アジア・西太平洋地域にあまねく様々な羽衣伝説が流布していた。それは『万葉集』の「竹取翁」型を始め、鶴女房型、浦島型、七夕型、かぐや姫型など多様だ)。

 こうした両者の関係から七夕を、かぐや姫の誕生日に結び付けたようなのだ(全日本竹産業連合会「竹・たけのこの日」の由来)。また、竹取の翁がかぐや姫を竹の中に見つけたとき、かぐや姫は三寸くらいの女の子とされている。三寸というと大体9~10cmほど。そのくらいの大きさのかぐや姫が入る程度に、竹が生長するのが七月上旬だったのであろうか。


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2006年07月03日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(三)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(三)


◆◇◆節句とは、移り変わる日本の季節を楽しむ繊細な感性

 古来より、日本人にとって節句とは、移り変わる日本の季節の節目、節目を感じ取り、心豊かに暮らせることを楽しみ祝う、昔ながらの記念日であった。春夏秋冬と季節が美しく移り行く日本では、気候の変り目の祝祭日のことを節日(せちび・せつび)といい、お供え物をしたり行事をおこなって祝ってきたという歴史がある。この節日の供物、「節供(せちく)」という言葉が、節日そのものを指すようになって「節句」という言葉になったともいう。

◇五節句というように、現在にも五つの節句が伝えられている。

  1月7日、七草粥で新年を祝う「人日(じんじつ)の節句」
  3月3日、雛祭りとして有名な「上巳(じょうみ・じょうし)の節句」
  5月5日、男の子の成長を祝う、こどもの日「端午(たんご)の節句」
  7月7日、織姫、彦星の物語で有名な「七夕(たなばた)の節句」
  9月9日、菊花の香りの酒で月をめでる「重陽(ちょうよう)の節句」

 それぞれの節句は、宗教行事として、地域の祭りとして、また子供たちの成長を祝う祝日として、様々な形で私たちの暮らしの中にいきづいてきた。節句とは、日本という風土の中で、季節の移り変わりを感じ取り、それを楽しむ記念の日として、日本人が持ちえた繊細で豊かな感性だったのだ。

 これらは古来、宮中の行事であったり、中国から伝わった伝説であったりしたものだ。それが長い歴史を経るうちに、地域の暮らしや風土にあったものへと姿を変えながら、現代の私たちに季節感を伝えてくれたり、暮らしのワンシーンを和やかなものにしてくれたりするのである。


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2006年07月02日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(二)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(二)

◆◇◆京都の七夕行事、相撲節会(すまいのせちえ)

 かつての宮中では雅びやかに七夕の行事が行われた京都では、仙台の七夕に代表されるような華やかな七夕祭りはみられない。七月の京都といえば、日本三大祭りとして名高い祇園祭一色に染まってしまうからかもしれない。平安時代までは、相撲も七夕の行事だった。

 かつて宮中では毎年七月にいわゆる天覧相撲である相撲節会(すまいのせちえ)が行われていた。もとは七月七日であったものが、天長三年(八二四)には七月十六日に、やがて七月二十五日にと日にちが移り変わり、やがて源平争乱の中で途絶えていったということで、残念ながら現代には伝わっていない。

◆◇◆京都の七夕行事、乞巧奠(きこうでん)

 中国から伝わった宮中の行事に、乞巧奠(きこうでん)がある。京都では、いまも公家の流れをくむ冷泉家で受け継がれている。旧暦七月七日というと、現在では八月の末ごろ、冷泉家では七夕の歌会、乞巧奠(きこうでん)が執り行われる。供え物をして牽牛・織女を祀り、芸事の上達を祈るとともに、管弦の奏楽、冷泉流による和歌の朗詠が行われ、天の川に見立てた白い布をはさんで七夕の歌を贈答する古式ゆかしい行事が行われる。

◆◇◆京都の七夕行事、貴船神社・七夕祭、貴船の水まつり

 生きとし生けるもの皆に、無限の潤いと活力を与える「水」に感謝し、水にゆかり深いお茶を点てて献じ、日常の料理(鯉・鯛)を古伝流によって包丁を入れ、祈願と感謝をあらわす。神と人が一体となった貴船の里に繰り広がる祭典である。

◆◇◆京都の七夕行事、御手洗祭(みたらしまつり)

 菅原道真公ゆかりの京都、北野天満宮では、道真が七夕に歌を詠んだことにちなんで、この日は文芸上達を願う祭りとされています。神前には道真遺愛の硯・水差し・角盥(つのだらい)を並べ、その左右には短冊代わりの梶の葉、なす、きゅうり、みたらし団子などを供えて祭りを行います。御手洗祭というのは、御手洗池に手足をつけて穢れを祓う、昔の節句の行事に由来しているようです。

◆◇◆京都の七夕行事、七夕立花会(たなばたりっかえ)

 桃の節句、菊の節句というように、季節の移り変わりをめでる節句の行事は花と深くかかわっていた。なかでも七夕には、牽牛・織女へ花を供えることから、これが生け花の発展につながってきたともいわれる。室町幕府の時代には、七夕法楽として将軍家や公家の間で花合せがさかんに催されるようになった。年中行事化した生け花は、その後も広く普及をつづけたのである。今でも多くの華道では、七夕の花は特別な意味をもっている。

◆◇◆京都の七夕行事、地主(じしゅ)神社で恋愛成就の祭典
 
 七夕伝説は、天の牽牛・織女が年に一度会うことができる恋の物語だ。この説話にちなんで京都、東山の地主(じしゅ)神社では、この日恋愛成就の祭典がおこなわれる。七夕笹に互いの名前を記した一対のこけしを吊るして奉納すると、思いが叶うのだそうである。


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2006年07月01日

◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(一)




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(一)

◆◇◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来と行事

 七夕(七夕の節句)は、「笹のはさらさら・・・」と歌われ、各地でさまざまな祭りや行事が行われる夏の風物詩で、桃の節句や端午の節句と並ぶ五節句の一つである。今日では、七月七日の夜の星祭りとして定着した。

 七夕(たなばた)といえば、竹笹の枝に色とりどりに飾られる、願いをこめた短冊が思い浮ぶ。また、牽牛と織女が年に一度逢瀬をはたす物語は誰もが知っている。

 七月七日(旧暦も含む)には、日本の各地でさまざまな祭りや行事が行われるが(新暦の「平塚の七夕」、月遅れの「仙台七夕」など)、時期は、新暦・旧暦・月遅れと地方によって異なっているようだ。

 天の川をはさんできらめく牽牛星・織女星の物語は、いまから二千年前にはすでに中国で成立していた伝説だといわれている。機織りに励んだ天上の織女にちなんで、星に技芸の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」(女性達がこの日、七本の針に糸を通して捧げものし、織姫に針仕事の上達を祈る)という宮中行事が生まれ、日本へ伝わったとされている。

 こうして七月七日の行事である七夕(乞巧奠)は、日本では奈良時代に宮中の行事として執り行われるようになった。民間に広まったのは室町時代以降といわれる。

 もっとも、乞巧奠の伝来以前の日本にも、七月七日に古い民間信仰と結びついた行事があったといわれている。折口信夫によると、日本には棚機女(たなばたつめ)という巫女が、水辺で神の降臨を待つという農村の「禊ぎ(みそぎ)」の行事があったそうでだ。

 その両者が習合・混淆したのが日本の七夕で、「七夕」と「タナバタ」と読むのも「棚機女(たなばたつめ)」からきているという。両者が習合・混淆・合体したのも、日本の棚機女の伝説(天から降り立つ神のために美しい衣を織る織女)と、中国の織女の伝説(機織りに励んだ天上の織女)に共通し重なるものがあったからだろう。

 江戸時代になると、七夕の行事は民間にも広がる。この頃、「習字の上達を祈願して」笹に願いを書いた短冊をつけて飾る風習が生まれたようだ。また、乞巧奠の流れを汲む七夕は、江戸時代に定められた五つの節供(1/7七草(人日)の節句、3/3桃(上巳)の節供、5/5端午の節供、7/7七夕の節句、9/9重陽の節供)のうちの一つとして定着し、武家・町人の社会に広がった。

 一方、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水にかかわる農耕儀礼の性格を持ち、更にそれに盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事としての要素が加わる。日本古来の伝承(棚機女=たなばたつめの伝説)や風習(穢れを祓う行事)と、中国の行事(乞巧奠)がうまく混ぜ合わさったからこそ、七夕はいまでも日本の各地にさまざまな形で、大切に伝えられているのかもしれない。


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2006年06月01日

◆メッセージ1




◆メッセージ1

 「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本と日本人の原点と基層を調べています。

 私は専門的に学んだわけではありませんが、こうしたことに興味を持っています。まだまだ知らないこともたくさんあり、皆さんから多くのことを教えていただきたいと思っています。

 今の多くの人が、あまりにも日本の文化や歴史のことを知らな過ぎ、外からの情報に翻弄され刹那的に行動しています。このような拠り所を失い根無し草のように漂う様を見ていると、しっかりと自分たちのアイデンティティを見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本人と日本文化を自覚することが必要だと感じるようになりました。

 国際化が叫ばれていますが、本当の意味で国際人になるためにも、自分を自国をしっかり伝えることが出来ての国際化・国際人だと思います。

 特に日本の伝統文化・神話・古代史や地域に残る風習・祭り・行事など、古代人から現代人まで地下水脈のようにつながる精神世界に興味を持っています。日本の地域に残る風習や祭りは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した世界観(素朴な神々の世界観)の記憶です。

 私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)を意識することなく生活しています。しかし、気付かなくとも、私たち日本人のものの見方や行動を規定している「何か」があります。その何かとは・・・。

 この日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、この豊かな森と水の日本列島という風土のなかで育成されてきた「日本人の精神的遺産」です。日本の神々の世界(八百万の神々)や風習・祭り・行事は、私たちの意識の底に眠った神々の記憶(古代の世界観)でもあり、大自然に宿る日本人の原風景でもあります。

 このような、古代から豊かな森と水に恵まれた日本列島とうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだ日本人の知恵を学びたいと思っています。

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