2006年07月25日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)


◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(2)

 「祇園社」自身は、貞観十八年(八七六年)に南都の僧円如(一説には、常住寺の僧)が播磨国「広峯」(※注2)に祀られていた天竺の祇園精舎の守護神であった「牛頭天王(ごずてんのう)」を八坂郷の樹下(現在地)に移した「祇園堂」が始まりとされている(※注3)。牛頭天王が素戔嗚尊(すさのおのみこと)になって現れたともいわれている。

 平安時代初期の元慶年間(八七七-八八四)、摂政・藤原基経(もとつね)がこの地に精舎・「観慶寺感神院」を建て、境内に本殿・「祇園天神堂」を設けた(承平四年・九三四年、「感神院社壇」を建立したとも伝えている)。

 しかし、この神社が京の都人と深い関係をもち、規模が大きくなるのは何といっても「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)(のちの祇園祭)」が始まってからだ。「祇園御霊会」の成立は貞観十一年(八六九)とも天禄元年(九七○)ともいわれている。

(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。

 このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。

 明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。だから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。

(※注2) また、正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようである。それが広峯社(現姫路市内)であったようだ。

 さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。

(※注3) 今日の八坂神社に直接に繋がる社祠ができたのは、平安時代に入ってからのようだ。その根拠は、鎌倉末期頃も成立とみられる『社家条々記録』に、「当社草創の根元は、貞観十八年、南都の円如上人、始めてこれを建立す。これ最初の本願主なり。」とあり、また同じ頃の『二十二社註式』(吉田家伝来の記録類には、「牛頭天王は、初め播磨の明石浦に垂跡して広峯に移り、その後北白川の東光寺に移り、その後、人皇五十七代陽成院の元慶年中、感神院に移る」とあり、さらに平安末期か鎌倉初期の『伊呂波字類抄』には「祇園・・・貞観十八年、八坂郷の樹下に移し奉る」と記されている。


スサノヲ(スサノオ)

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